一色時家(いっしきときいえ)
生年月日 | 1400年~1410年頃 |
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没年月日 | 1477年 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | 一色持家 |
官位 | 刑部少輔 |
家系 | 幸手一色家 |
父 | 一色長兼 |
母 | |
正室 | |
側室 |
年表
1400年~ 1410年頃 |
幸手一色家の一色長兼の長男として生まれる。鎌倉公方の足利持氏に仕える。元服のときに足利持氏から偏諱をされ一色持家と名乗ったとされる。 |
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1426年 | 足利持氏の命で甲斐国の武田信長征討に派遣され、都留郡の猿橋において交戦するが敗北した。この頃に足利持氏から相模国守護に任じられるが、最終的な補任権を持つ室町幕府は一色時家を守護として承認したとする史料は発見されておらず、一色時家の就任を認めなかった室町幕府と鎌倉公方の対立を深刻化させる一要因になった。 |
1438年 | 永享の乱では、伯父の一色直兼と共に足利持氏方の大将として戦うが敗北、同族の一色家を頼り三河国に落ち延びた。 |
1439年 | 三河国宝飯郡宮島郷に一色城を築城し、ここを根拠地として勢力の拡大を図る。 |
1440年 5月 |
6代目将軍の足利義教による一色義貫誅殺は、三河国守護でありながら、足利持氏方残党の一色時家を匿ったため起こったといえる。 |
1467年 | 応仁の乱が勃発すると、同族の一色義直と行動を共にし西軍に属する。 |
1476年 9月 |
東軍の三河国守護代の東条国氏が一色時家らとの戦いに敗れて三河国で自害した。 |
1477年 | 被官である三河国人の波多野時政に殺害された。 |