織田信長(おだのぶなが)
生年月日 | 1534年5月12日または5月28日 |
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没年月日 | 1582年6月2日 |
幼名 | 吉法師 |
通称 | 三郎 上総守 上総介 右大将 右府 |
別名 | |
官位 | 従三位 権大納言 右近衛大将 正三位 内大臣 従二位 右大臣 正二位 贈従一位 太政大臣 贈正一位 |
家系 | 織田弾正忠家 |
父 | 織田信秀 |
母 | 土田御前(土田政久の娘) |
正室 | 鷺山殿(帰蝶)(濃姫)(斎藤秀龍の娘) |
側室 | 生駒家宗の娘 坂氏 興雲院(お鍋の方)(高畠源十郎の娘) 養観院 春誉妙澄大姉 稲葉家? 慈徳院(滝川一益親族) 青山家の娘 あここの方(三条西実枝の娘) 塙直子(塙直政の妹) 明智光秀の妹 |
年表
1534年 5月12日 |
尾張国勝幡城を本拠とする戦国大名の織田信秀と正室の土田御前の嫡男(三男)として生まれる。幼名は吉法師。5月28日の説あり。 |
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1536年 | 乳母の乳首を噛み破る癖があって困らせていたが、池田恒興の母(養徳院)が乳母になってからは直った。 |
1542年 | 織田信秀から那古野城を与えられ城主となる。織田信秀は傅役として宿老の林秀貞・平手政秀・青山秀勝・内藤泰正をつける。平手政秀の要請により、沢彦宗恩が教育係となる。 |
1546年 | 古渡城にて元服し、三郎信長と称する。 |
1547年 | 今川家の三河国吉良大浜を攻めて初陣を果たす。 |
1547年 8月 |
織田弾正忠家の人質となった徳川家康と対面する。(徳川家康が織田弾正忠家の人質となる) |
1548年 秋頃 |
美濃国の戦国大名の斎藤秀龍と織田信秀との間で講和および斎藤秀龍の娘の帰蝶と織田信長の結婚が成立した。講和および結婚にこぎつけたのは、織田信長の傅役の平手政秀である。(織田信秀と斎藤秀龍が講和) |
1549年 2月24日 |
斎藤秀龍の娘の帰蝶と織田信長の婚儀が古渡城で行われる。 |
1549年 3月頃 |
織田信秀が流行病にかかり、政務の代行をするようになる。 |
1549年 11月 |
織田信秀の代行として熱田に制札を出す。 |
1552年 3月3日 |
織田信秀の死亡により家督を相続する。上総守信長と称するようになる。織田弾正忠家4代目当主。 |
1552年 4月17日 |
鳴海城主の山口教継・山口教吉の父子が今川義元に寝返る。赤塚の戦いで山口教吉と引き分け、鳴海城を奪還できなかった。 |
1552年 8月16日 |
萱津の戦いで織田大和守家に勝利する。以後、織田大和守家と敵対姿勢を鮮明とする。 |
1553年 閏1月13日 |
宿老である平手政秀が自害する。嘆き悲しみ、沢彦宗恩を開山として政秀寺を建立し、平手政秀の霊を弔った。 |
1553年 4月下旬 |
斎藤秀龍と中立地帯の尾張国富田の聖徳寺で会見する(織田信長と斎藤秀龍が会見する)。この会見で斎藤秀龍は並々ならぬ力量を知り、以後、両者の同盟は確かなものとなる。 |
1554年 1月24日 |
村木砦の戦いで今川家に勝利する。 |
1554年 | 尾張国守護の斯波義統の近臣の梁田政綱と那古野弥五郎が織田信長に内通し、これを受けた織田信長は清洲城に兵を差し向けて町を焼き払い裸城にした。自らも出陣したが、城の守りが固く引き上げた。 |
1554年 7月12日 |
尾張国守護の斯波義統が、織田大和守家の又代の坂井定尚らに謀殺される事件が起きる(尾張国守護の謀殺)。これは、斯波義統が織田弾正忠家についたと思われたためであり、息子の斯波義銀は織田信長を頼りに落ち延びる。織田大和守家の織田信友を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れる。 |
1554年 7月18日 |
安食の戦いで織田大和守家に勝利する。 |
1555年 4月20日 |
叔父の織田信光と共謀し、清州城を攻め落とし、織田信友を切腹させる。尾張国守護代の織田大和守家は滅亡する。1554年の説あり。 |
1556年 4月 |
長良川の戦いで岳父の斎藤秀龍の救援のため出陣するも、斎藤秀龍を打ち取り勢いに乗った斎藤義龍軍に苦戦し、自らが殿をしつつ退却する。 |
1556年 8月24日 |
稲生の戦いで弟の織田信勝に勝利する。 |
1558年 7月 |
浮野の戦いで同族の犬山城主の織田信清と協力し、織田伊勢守家の当主の織田信賢に勝利する。 |
1558年 11月2日 |
織田信勝が再び謀反を企てると、家臣の柴田勝家の密告があり、事態を悟り、病と称して清州城に誘い出し殺害する。 |
1559年 2月2日 |
上洛し、室町幕府13代将軍の足利義輝に拝謁する。 |
1559年 3月 |
織田信賢の本拠地の岩倉城を陥落させ、追放する。尾張国の統一に大きく前進する。 |
1560年 5月19日 |
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勝利する。 |
1561年 | 石ヶ瀬において徳川家康と小競り合いとなる。 |
1561年 5月14日 |
森部の戦いで斎藤龍興に勝利する。 |
1562年 1月15日 |
徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)。 |
1562年 2月 |
鉄砲の生産者保護のため、鋳物師の水野範直に領国内の寺社で使用する梵鐘・塔の九輪・鰐口の製造を独占することを許し、あわせて鍋・釜などの専売権を認める。 |
1563年 7月 |
美濃国攻略のため本拠を小牧山城に移す。 |
1563年 12月 |
領国内の瀬戸物を保護する制札をだす。 |
1565年 | 犬山城主の織田信清を下して、尾張国統一を達成する。 |
1565年 | 滝川一益の援軍依頼により伊勢国方面にも進出し、神戸具盛と戦い屈服させる。 |
1565年 11月13日 |
甲斐国の戦国大名の武田晴信と領国の境界を接することとなったため、武田晴信の四男の武田勝頼に対して織田信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせ、同盟を結ぶ(甲尾同盟)。 |
1567年 9月初旬 |
美濃国の稲葉山城を奪取し、斎藤家を滅亡させる。小牧山城から稲葉山城に居城を移す。沢彦宗恩の提案により、井ノ口を岐阜と改称する。 |
1568年 1月 |
近江国小谷城の戦国大名の浅井長政と同盟を結ぶ。その際、妹のお市の方を輿入れさせる。1561年・1563年・1564年・1567年の説があるが、浅井長政との婚約は数年前に調っていたとされる。 |
1568年 7月27日 |
将軍候補の足利義昭と美濃国の立政寺で会見し、鳥目1000貫・太刀・鎧・馬などを進上する。 |
1568年 8月2日 |
近江国甲賀郡の土豪に足利義昭の上洛への協力を要請する。 |
1568年 8月7日 |
近江国佐和山城に赴き、京都所司代職につける条件で六角義賢の協力を要請するが、7日間におよぶ説得にも応じず、大群を率いての上洛を決意する。 |
1568年 9月12日 |
六角義賢の支城の箕作城をおとす。 |
1568年 9月13日 |
六角義賢・六角義治父子の居城の観音寺城をおとして、甲賀山中へと敗走させる。 |