一万人の戦国武将

赤塚の戦い(あかつかのたたかい)

別名 赤塚合戦
年月日 1552年4月17日
場所 尾張国愛知郡赤塚
愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚
交戦勢力 織田弾正忠家
山口教吉
総大将 織田信長
山口教吉
参加武将 内藤泰正
蜂屋般若介
 
戦力 800
1500
結果 引き分け

戦いの背景

1552年
3月3日
尾張国内で勢力を拡大していた織田信秀が死亡し、織田信長が家督を継ぐと、織田信秀に従っていた鳴海城主の山口教継・山口教吉の父子が今川義元に寝返った。山口教継は子の山口教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修築して今川家の葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れると、自らは桜中村城に立て籠もった。

戦いの経緯

1552年
4月17日
織田信長は兵800で那古野城を出陣し、中根村を駆け抜け小鳴海に移動すると、三の山へ登った。すると、山口教吉が三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1500の兵で出陣して来た。これを見て織田信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。このときの織田信長の先陣には、四家老の一人の内藤泰正や蜂屋般若介の名も含まれている。
矢戦の後、槍戦となり、おおよそ午前10時から正午ごろまで乱戦が続けられた。あまりの接近戦のため、首を取り合うこともなかった。織田信長方は30騎が討ち死にした。しかし勝敗は付かず、元々は味方同士で顔見知りの間柄だったため、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣した。織田信長は鳴海城を奪還できなかった。