一万人の戦国武将

織田大和守家(おだやまとのかみけ)

織田大和守家は織田常任(常竹)から始まる織田家の分家で尾張国の又守護代(在地領主)である。1467年に応仁の乱が起こると織田敏定は斯波義敏を擁立して東軍に属し、尾張国守護の斯波義廉と共に西軍に属した織田宗家(織田伊勢守家)の織田敏広と対立する。1478年に東軍であった織田敏定は室町幕府第九代の足利義尚から正式な尾張国守護代と認められる。織田敏広は討伐対象として清州城を追われるが、岳父であった美濃国の斎藤妙椿の支援を得て清州城を包囲した。1479年に再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿が清州城の包囲を解き、尾張国上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)を伊勢守家、尾張国下四郡(愛知郡・知多郡・海東郡・海西郡)を大和守家が治めることで和睦した。1481年3月に大和守家は伊勢守家と争って敗北する。1483年に京から尾張国に下向した斯波義寛が清州城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張国は一時の安定期を迎えた。

家系図

織田大和守家