一万人の戦国武将

織田伊勢守家(おだいせのかみけ)

織田伊勢守家は織田教信(常松)から始まる織田家の宗家で尾張国の守護代である。織田淳広(朝長・教長)のあとを織田郷広が継ぐが、1441年に寺社領・本所領を横領し逐電した。1442年に織田久広は守護代となる。1451年に室町幕府8代目将軍の足利義政の乳母の今参局の介入で織田郷広が再任を計ろうとしたため、織田久広は主家の斯波家に命じられ、越前国で織田郷広を自害に追い込んだ。1467年に応仁の乱が起こると織田敏広は尾張国守護の斯波義廉と共に西軍に属し、斯波義敏を擁立して東軍に属した又守護代(織田大和守家)の織田敏定と対立する。1478年に東軍であった尾張国又守護代の織田敏定が室町幕府第九代の足利義尚から正式な尾張国守護代と認められる。織田敏広は討伐対象として清州城を追われる。しかし、岳父であった美濃国の斎藤妙椿の支援を得て清州城を包囲した。1479年に再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清州城の包囲を解き、尾張国上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)を伊勢守家、尾張国下四郡(愛知郡・知多郡・海東郡・海西郡)を大和守家が治めることで和睦した。1481年3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利する。織田寛広は尾張国守護の斯波義寛に帰順した。1483年に京から尾張国に下向した斯波義寛が清州城に入城し、守護・斯波義寛、守護代(大和守家)・織田敏定の体制で尾張国は一時の安定期を迎えた。

家系図

織田伊勢守家