一万人の戦国武将

織田信長と斎藤秀龍が会見

背景

1548年
秋頃
織田信秀斎藤秀龍との間で講和および織田信長と斎藤秀龍の娘の帰蝶との結婚が成立した。(織田信秀と斎藤秀龍が講和
1549年
2月24日
織田信長と斎藤秀龍の娘の帰蝶の婚儀が古渡城で行われる。

経緯

1553年
4月下旬
尾張国の織田信長と美濃国の斎藤秀龍が濃尾国境付近の中立地帯の尾張国冨田の聖徳寺で会見した。斎藤秀龍は娘婿の織田信長が「うつけ」者であるとのうわさの真偽を確かめるため、会見を申し入れたのである。先に到着した斎藤秀龍は、家臣700~800人を正装させて聖徳寺本堂の前にならばせ、自分は町はずれの小家に忍んで織田信長の様子を観察した。織田信長はうわさどおりのうつけた態度・服装だったが、その供衆は三間間中柄の槍500ばかり、弓・鉄砲500ばかりという堂々としたものだった。また、織田信長は聖徳寺につくと髪形や服装を正装に改め、会見にのぞんだ。斎藤秀龍はこの会見で、織田信長の並々ならぬ力量を知り、帰路、家臣にむかって「残念だが、自分の子どもたちは織田信長の家臣になるだろう」と語った。以後、織田信長と斎藤秀龍の同盟は確かなものとなる。