一万人の戦国武将

尾張国守護の謀殺

背景

1515年
8月
引馬城における今川家との合戦では斯波義達自身が捕虜になるほどの大敗を喫し、剃髪をさせられた上で尾張国に送り返される屈辱を受けた。帰国後の斯波義達は実質的な引退に追い込まれて失意の晩年を過ごすこととなり、これに代わってわずか3歳の斯波義統織田大和守家に擁される傀儡的存在として新たな尾張国守護となった。
1537年
4月
尾張国における正統性の象徴として織田大和守家に擁された形の斯波義統であったが、寺領安堵状を初見として、尾張国守護としての活動が見られるようになるため、名実ともに尾張国守護となっていたと思われる。また名目上は自らの「家臣」である織田弾正忠家織田信秀が、その勢力を美濃国や三河国など、尾張の国内外に拡大させる事には比較的賛意を示していた。
1541年
7月27日
斯波義統は、織田信秀が西三河にまで勢力を広げ始めると、現実味は低かったと思われるものの、かつての斯波家の分国であり、朝倉家が君臨している越前国の奪還すらも企画していた。
1544年 斯波義統は、織田信秀が美濃国へ進攻する際には、尾張国中に織田信秀への協力を命じて、本来なら織田弾正忠家よりも格上にあたる織田伊勢守家や同輩の織田因幡守家をも美濃国進攻軍として動員させるなど、織田信秀に対して厚い支援を行った。しかし織田大和守家の織田信友としては、斯波義統が織田弾正忠家の織田信秀に接近することを快く思わず、斯波義統としても自身を傀儡として扱う織田信友に不満を見せはじめたため、次第に両者の対立が深まっていった。
1552年
8月16日
織田大和守家の織田信友と織田弾正忠家の織田信長との間で萱津の戦いが起こり、織田信長が勝利する。織田大和守家と織田弾正忠家は敵対姿勢を鮮明とする。
1554年 斯波義統の近臣の梁田政綱那古野弥五郎が織田信長に内通し、これを受けた織田信長は清洲城に兵を差し向けて町を焼き払い裸城にした。自らも出陣したが、城の守りが固く引き上げた。

経緯

1554年
7月12日
斯波義統はそんな状況下に嫌気が差したのか、織田信友が織田信長を謀殺する計画を企てたとき、織田信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。しかしそれを知った織田信友は激怒し、斯波義統の嫡男の斯波義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、又代の坂井定尚をはじめとして、腹心の織田三位、河尻与一、川原兵助らとともに守護邸に攻め入った。城内の守りは非常に手薄であったが、そのような中でも森政武・森掃部助兄弟や柘植宗花、同朋衆の善阿弥などの守護方の奮戦もあり、織田大和守家方に多数の損害を与えた。しかし、森兄弟は柴田角内に討たれ、衆寡敵せず守り手も次々と討たれていった。防ぎきれぬと悟った斯波義統は城に火を懸けて、弟の斯波統雅や従叔父の斯波義虎ら一族30余名と共に自害した。斯波義統の自害の報せを受けた斯波義銀は、川狩りを切り上げて湯帷子姿のまま那古野の織田信長の元へ救いを求めると、織田信長は斯波義銀に二百人扶持を献じて津島神社(津島天王社)に住まわせた。なお、もう一人の斯波義統の子の毛利秀頼は毛利十郎によって保護され、那古野へ送り届けられている。これにより、織田信長は織田信友を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れる。