萱津の戦い(かやづのたたかい)
別名 | 萱津合戦 海津の戦い |
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年月日 | 1552年8月16日 |
場所 | 尾張国海東群萱津 愛知県あま市上萱津八剱50(萱津古戦場跡) |
交戦勢力 | 織田弾正忠家 |
織田大和守家 | |
総大将 | 織田信長 |
坂井定尚 | |
参加武将 | 織田信光 織田伊賀守 織田信次 中条家忠 柴田勝家 前田利家 |
坂井直家 河尻与一 織田三位 |
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結果 | 織田弾正忠家の勝利 |
戦いの背景
1552年 3月3日 |
織田大和守家の清洲三奉行の一人の織田信秀はその勢力を伸ばし、織田大和守家とも対立と和睦を繰り返すほどになっていた。しかし、織田信秀が死亡し、織田信長が家督を継ぐと、織田信秀に従っていた鳴海城主の山口教継・山口教吉の父子が今川義元に寝返った。 |
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1552年 4月17日 |
織田信長と山口教吉との間で赤塚の戦いが起きるなど、織田弾正忠家は不安定な状態であった。 |
1552年 8月15日 |
この頃、織田大和守家の当主は織田信友であったが、その実権は又代の坂井定尚に握られていた。坂井定尚は坂井直家・川尻与一・織田三位と謀り、織田信長方の松葉城と深田城を襲撃すると、松葉城主の織田伊賀守と深田城主の織田信次を人質とした。 |
戦いの経緯
1552年 8月16日 早朝 |
この報せを聞いた織田信長は、那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)の庄内川畔で、守山城から駆けつけて来た織田信光と合流。兵を松葉口・三本木口・清洲口に分け、自らは織田信光と一手になって庄内川を越し、海津(萱津)へと移動した。 |
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1552年 8月16日 8時頃 |
海津(萱津)では、数時間の交戦の末に坂井直家が討ち死にした。その首は、中条家忠と柴田勝家が二人がかりで取った。織田大和守家方は50騎が討ち死にした。 松葉口では惣構えの中へ織田大和守家方を追い入れ、真島の大門崎で正午ごろまで交戦が行われて、数時間の矢戦に織田大和守家方は負傷者多数でほぼ無人となって本城に退却した。 深田口では三本木の町に要害がなかったため即座に追い崩し、織田大和守家方の侍は30余人が討ち死にした。これにより、深田・松葉両城に織田信長方が押し寄せると、織田大和守家方は降参して城を明け渡し、清洲へ一手になって退却した。織田信長は余勢を駆って清洲の田畑を薙ぎ払い、以後両者の敵対関係が続くことになる。 |