一万人の戦国武将

明智光秀(あけちみつひで)

生年月日 1526年
1513年
1516年
1528年3月10日または8月17日
没年月日 1582年6月13日
幼名 彦太郎
通称 十兵衛
別名 惟任光秀
惟任日向守
官位 従五位下 日向守
家系 明智兵庫頭家
明智光綱
お牧の方
正室 妻木範煕の娘(妻木煕子)
側室

年表

1526年 明智兵庫守家の当主の明智光綱とお牧の方の長男として美濃国で生まれる。
生年には1513年・1516年・1528年3月10日または8月17日などの説がある。生地には明智光秀の祖先が土岐家に背いて六角家を頼り、近江国犬上郡で生まれた可能性があり、十兵衛屋敷跡と呼ばれる場所がある。
1563年 室町幕府13代目将軍の足利義輝の近臣の名を記録した「永禄六年諸役人附」の後半部に足軽衆「明智」と記載されていることから、この頃には足利義昭に仕えていたと思われる(後半部は足利義昭の将軍任官前)。
1565年
5月頃
近江国高嶋の田中城に籠城したときに高度な医学的知識を語った。人づてに聞いた米田求政が書き残した(米田文書の「針薬方」)。
1568年
6月23日
明智光秀は、足利義昭に「朝倉義景は頼りにならないが、織田信長は頼りがいのある男だ」と進言し、足利義昭は織田信長に対して上洛して自分を征夷大将軍につけるように細川藤孝を使者にして明智光秀を通じて要請した。
1568年
7月頃
足利義昭は織田信長への2回目の使者も細川藤孝だったが、明智光秀を仲介者とした。明智光秀はこの時に「織田信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と語った。織田信長の正室の濃姫は斎藤秀龍の娘で斎藤秀龍の継室が小見の方(明智光継の娘)であるため明智光秀は濃姫と従兄妹または血縁であった可能性があり、その縁の頼ったとされる。
1568年
8月頃
この頃から足利義昭と織田信長の両属となり、織田信長からの初録は500貫文だった。
1568年
9月26日
明智光秀は足利義昭の上洛に加わる。
1569年
1月5日
三好三人衆が足利義昭の宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する足利義昭側として明智光秀も参戦した。
1569年
4月頃
この頃から豊臣秀吉・丹羽長秀・中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。
1570年
1月
織田信長は足利義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は明智光秀と朝山日乗で、足利義昭は承諾の黒印を袖に押し織田信長へ返している。
1570年
4月28日
明智光秀は金ヶ崎の戦いで織田信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3000人を主力に、豊臣秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。
1570年
4月30日

5月6日
丹羽長秀と共に若狭国へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して帰京した。
1570年
5月頃
足利義昭から所領として山城国久世荘が与えられた。
1570年
9月
志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。
1571年 三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、明智光秀は織田信長と足利義昭に従軍して摂津国に出陣した。
1571年
9月12日
比叡山焼き討ちで中心実行部隊として武功を上げ、近江国滋賀郡(約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。
1571年
12月
足利義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが不許可となる。暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された明智光秀が織田信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、足利義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に織田信長と足利義昭の対立の一因を明智光秀が引き起こした可能性がある。
1572年
4月
河内国への出兵に従軍した折では、まだ足利義昭方であった。
1573年
2月
足利義昭が挙兵。明智光秀は石山城・今堅田城の戦いに足利義昭と袂を別って織田信長の直臣として参戦した。織田信長は将軍を重んじ足利義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。
1573年
7月
足利義昭が槇島城で挙兵し、明智光秀も従軍した。足利義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、明智光秀に仕えた者も多い。この頃、坂本城が完成し、居城とした。村井貞勝が京都所司代になるが、1575年前半まで明智光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。
1573年
8月

9月
朝倉家滅亡後、豊臣秀吉や滝川一益と共に越前国の占領行政を担当した。
1573年
9月末
溝尾茂朝(三沢秀次)・木下祐久・津田元嘉が越前国の代官として引き継いだ。
1575年
4月8日
高屋城の戦いに参戦した。
1575年
5月21日
長篠の戦いに参戦した。
1575年
6月頃
丹波国攻略を任される。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親足利義昭派で、以前は織田信長に従っていたが足利義昭追放で敵に転じていた。ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡の宇津頼重や船井郡の内藤如安は親足利義昭・反織田信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の小畠永明は早くから織田信長に協力的で明智光秀とも面識があった。また、桑田郡の川勝継氏も小畠永明の説得で織田方に転じていた。
1575年
7月
惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守の任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、明智光秀は彼らと同格、すなわち織田弾正忠家の重臣層に加えられたことを意味していた。
1575年
7月
明智光秀は小畠永明・川勝継氏の協力を得て宇多頼重攻めを始めるが、途中で織田信長より越前国・丹後国方面への援軍を命じられて離脱した。丹後国出兵の背景には織田信長の丹波国攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名家領である但馬国の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があった。
1575年
8月
越前一向一揆殲滅戦に参加した。
1575年
8月
宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。
1575年
10月
一旦坂本城に戻った明智光秀は改めて丹波国攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲する。
1576年
1月15日
八上城主の波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。この結果、直後に織田信長から朱印状を与えられている小畠永明・川勝継氏以外の国人の多くが離反した。
1576年
4月
石山本願寺との天王寺の戦いに出動する。
1576年
5月5日
石山本願寺の逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。明智光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを織田信長が来援し助かる。
1576年
5月23日
過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。
1576年
11月7日
正室が坂本城で病死した。この頃、明智光秀は余部城を丹波国の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めた。
1577年
1月
亀山城の築城の準備を始めた。
1577年
2月
雑賀攻めに従軍した。
1577年
10月
信貴山城の戦いに参加して城を攻め落とす。その後、丹波国攻めを再開した。
1577年
11月
籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返した。
1577年 明智光秀は、興福寺と東大寺の相論の奉行を務め、祖先が足利尊氏に仕えてその書状を持っていると発言した。
1578年
3月
赤井直正が病死すると、再度丹波国に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させる。
1578年
4月29日
毛利攻めを行う豊臣秀吉への援軍として播磨国へ派遣された。
1578年
6月
神吉城攻めに加わる。
1578年
8月
明智光秀の三女・玉子(ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君の織田信長の構想に基づく命令による婚姻であった。
1578年
9月
丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠され、明智光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した。
1578年
10月下旬
織田信長に背いた荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、荒木村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている。
1579年
1月
丹波国攻めは最終段階に入っていたが、波多野軍の反撃で丹波国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。明智光秀は小畠永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず小畠永明の子を当主に立てることを命じた。
1579年
2月
包囲を続けていた八上城が落城。
1579年
8月9日
黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。その後、細川藤孝と協力して丹後国も平定した。織田信長は感状を出し褒め称えた。
1580年
8月25日
佐久間信盛が織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられて追放された背景には明智光秀の讒言があった。
1580年 丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と織田信長は明智光秀を絶賛した。丹波一国拝領と同時に丹後国の細川藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が明智光秀の寄騎として配属される。これにより明智光秀支配の丹波国、近江国滋賀郡、南山城を含めた、近江国から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになった。
1581年
1月
安土城左義長の爆竹と道具の準備を担当、京都御馬揃えの運営責任者を任された。
1581年
6月2日
織田弾正忠家には無かった軍法を、明智光秀が家法として定めた「明智家法」の後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで織田信長様への御奉公を忘れてはならない」という織田信長への感謝の文を書いた(「明智家法」は明智光秀の名誉回復のために後年に創作された可能性がある)。
1581年
8月7・8日
明智光秀の実妹か義妹で織田信長の側室の「御ツマキ」が死亡し、比類無く力を落とした。
1581年
12月4日
「明智家中法度」5箇条を制定。大きくなった家臣団へ織田弾正忠家の宿老・馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩の厳禁と違反者即時成敗・自害を命じた。
1582年
1月
茶会では、「床の間に織田信長自筆の書を掛ける」と発言し、信長を崇敬していた。
1582年
3月5日
武田家との最終戦である甲州征伐で織田信長に従軍した。
1582年4月21日 甲州征伐は先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で見届けて帰還した。
1582年
5月
徳川家康の饗応役であった明智光秀は任務を解かれ、豊臣秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられた。
1582年
6月2日
早朝に出陣し、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、明智光秀は重臣達に織田信長討伐の意を告げた。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、織田信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かった。本城有介によれば、雑兵は織田信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城有介も織田信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。明智光秀軍は織田信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。明智光秀軍13000人に対し、近習の100人足らずに守られていた織田信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。織田信長の死体は清玉上人によって火葬され、遺骨は阿弥陀寺に埋葬された(本能寺の変)。その後、二条御所にいた織田信長の嫡男(次男)の織田信忠と従兄弟の斎藤利治が、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、降伏勧告をしたが、斎藤利治は忠死を選んだ。応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成・村井清次や織田信長の馬廻りたちを共に討ち取った。また織田信長の甥の津田信澄は明智光秀の娘と結婚していたため、加担の疑いをかけられ大坂で織田信孝らに討たれた。
1582年
6月3日
明智光秀は京都を押さえると、すぐに織田信長・織田信忠父子の残党追捕を行った。さらに織田信長本拠の安土城への入城と近江国を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。まずは坂本城に入った。
1582年
6月4日
近江国をほぼ平定した。
1582年
6月5日
安土城に入って織田信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。
1582年
6月7日
誠仁親王は、吉田兼見を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に吉田兼見は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。
1582年
6月8日
安土城を出発して京都に向かった。
1582年
6月9日
宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の吉田兼見にも銀50枚を贈った。明智光秀寄騎で姻戚関係もある丹後国の細川藤孝・細川忠興親子は織田信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示し、さらに明智光秀の娘で忠興の正室の玉子(ガラシャ)を幽閉して明智光秀の誘いを拒絶した。大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も豊臣秀吉に味方した。ただし筒井順慶に関しては豊臣秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江国に兵を出して明智光秀に協力していた。高山重友ら摂津衆を先に豊臣秀吉に押さえられた。
1582年
6月13日
本能寺の変を知り急遽、毛利家と和睦して中国地方から引き返してきた豊臣秀吉の軍を天王山の麓の山崎で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、豊臣軍27000人(池田恒興4000人・中川清秀2500人・織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら8000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍17000人(16000人から18000人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3000人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である豊臣軍の統率の混乱や周辺勢力の明智光秀への味方)が予想でき、豊臣軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。豊臣軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山重友や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3000人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった(山崎の戦い)。明智光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した。67歳。
1582年
6月14日
明智光秀の首は発見した百姓により村井清三を通じて織田信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。
1582年
6月17日
斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた。
1582年
6月24日
斎藤利三と明智光秀の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた。
人物 合理主義者であったため、織田信長に重用され信任された。
「フロイス日本史」の中で、「その才知、深慮、狡猾さにより織田信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず織田信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する織田信長の前や、一部の者が織田信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」などの明智光秀評がある。