一万人の戦国武将

勝幡城(しょばたじょう)

所在地 愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪にまたがる
築城主 織田信定
築城年月日 1504年~1521年頃(永正年間)
廃城年月日 1555年
城主 織田信定
織田信秀
織田信長
城代 武藤雄政
構造 平城
二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていた。本丸は東西約53メートル(29間)、南北約78メートル(43間)、幅約5メートル(3間)の方形土塁であった。三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現日光川に位置するため当時の縄張りはよくわかっていない。

年表

1504年~1521年頃(永正年間) 織田弾正忠家の当主の織田信定が尾張国海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城した。
この地は元々「塩畑(しおばた)と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で織田信定が「勝ち旗」の意味で「勝幡」と改名した。
1533年 公卿の山科言継は織田信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと記している。
1538年 織田信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政を城代として置いた。1532年の説あり。
1555年 織田信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤雄政を野府城へと移した。それにより次第に衰退し、やがて勝幡城は廃城となった。
1979年 櫓台とされる位置の3メートル地下から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。