一万人の戦国武将

村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)

別名
年月日 1554年1月24日~27日
場所 尾張国知多郡村木
愛知県知多郡東浦町盛岡
交戦勢力 織田弾正忠家
今川家
総大将 織田信長
松平忠茂
参加武将 織田信光
水野信元
水野忠分
六鹿椎左衛門
 
結果 織田弾正忠家の辛勝

戦いの背景

1543年 緒川城の水野家はこれまで今川義元と友好関係にあったが、水野信元が家督を相続すると今川義元と織田弾正忠家の将来性を天秤にかけ、織田弾正忠家につくことにした。水野信元の行動がはっきりすると松平家に嫁いでいた妹たちは離縁して返された。
1552年
3月3日
織田弾正忠家では、織田信秀が死亡すると「うつけ」と呼ばれた織田信長が家督を相続した。鳴海城主の山口教継が今川義元に寝返るなど、これまで織田弾正忠家に協力的だったものも敵対するようになる。
1552年
4月17日
織田信長は赤塚の戦いで鳴海城を奪還できなかった。
1553年
6月
今川義元が尾張国を支配しようと考え、緒川城の隣の村木村の海岸に、砂丘があることを知り、水野家を滅ぼすのにちょうどよいと、軍隊をつけて砂丘に砦を建設した。千人の兵が守っており、水野信元は簡単に手が出せず、織田信長に救援を頼んだ。しかし、織田信長は尾張国内で織田大和守家と敵対関係にあり、「しばし待て、砦を造らせて、相手が油断するのを待て」と返事をした。今川家の勢いは厳しくなり、刈谷城の東にあった重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼした。これに呼応し、寺本城が今川家に寝返り、那古野城と緒川城の間の道を塞いだ。
1553年
9月
村木砦が完成し、今川家は松平忠茂を砦の大将として守らせた。緒川城を攻めるつもりはないようで、今川家につくように時々使者が来るだけだった。
1554年
1月中旬
織田信長は海を渡って寺本城を避け、村木砦を背後から攻撃することにした。留守中に敵対する織田大和守家の織田信友が那古野城を攻撃することが予想されたため、岳父の斎藤秀龍に使者を送り、援軍を求めた。その頃の村木砦には、300ほどの兵がいたが、静かなものだった。水野信元は周りの支配地から兵や食料・戦船をこっそり集め、準備した。
1554年
1月18日
斎藤秀龍は安藤守就に田宮・甲山・安斎・熊沢・物取新五の家来をつけ、毎日報告するように命じ、1000人の兵とともに派遣した。
1554年
1月20日
安藤守就は尾張国に到着し、那古野城の近くの志賀・田幡に布陣した。織田信長はすぐに安藤守就に礼を述べにいった。翌日出陣するはずだったが、ここで林秀貞・林通具の兄弟が不服を言い、帰ってしまった。家老たちは織田信長に「どうしたものか」と言ったが、織田信長は「いっこうに構わない」と言いそのまま出陣した。
1554年
1月21日
清洲城へ攻めるふりをして出陣し、織田信長は熱田に宿泊した。
1554年
1月22日
織田信長は熱田港から渡海する予定だったが、尾張地方特有の冬の「伊吹おろし」で非常な強風だったため船頭・水夫たちが船を出すことに反対した。これに対し織田信長は「源義経と梶原景時が逆櫓論争をした時もこのような風が吹いていただろう。早く船を出すのだ!」と言い、無理に船を出させた。織田信長は師崎周りで知多半島を廻って20里ほどの道程を約1時間で進み、緒川城の近辺に到着。その日は大井で野営をした。
1554年
1月23日
叔父の織田信光は村木砦の周りを固め、逃亡や今川家への使者を通さなかった。織田信長は緒川城へ行って水野信元に会うと、近辺の様子をよく聞き、夜には武将が集まって城内で軍議が開かれた。

戦いの経緯

1554年
1月24日
明け方に織田信長は出陣し、8時から村木砦に攻撃を開始した。織田信長は砦の南側に当たる現在の村木神社付近に本陣を置いた。砦の構造は、北は要害だが手薄、東は大手門、西は搦手門、南は甕型の非常に大きな堀であった。これに対し織田軍は、水野忠分は周りの海上を封鎖し、東の海側から攻め、織田信光は西側の搦手門から攻め、そして南側から織田信長が攻撃をかけた。織田信長勢は、砦にあった3つの狭間を、鉄砲隊の者たちにそれぞれ受け持ちを決めて担当させ、鉄砲を取り替えては撃たせ、その間に手勢に堀を登らせた。六鹿椎左衛門という名の者が外郭に一番乗りした。織田軍は暇なく攻め立てたので敵は負傷者・死者が増え、ついに降伏してきた。織田軍にも死者が多数出ており、また薄暗くなってきていたので、織田信長はこれを受け入れ、後の始末は水野忠分に任せた。織田信長の小姓にも死者が数多くいて、その惨状に涙した。こうして16時20分ごろ、戦いは終わった。その後、山あいの広場で宴会が開かれた。その場所は今でも「飯食場(いぐいば)」と呼ばれている。
1554年
1月25日
織田信長は、寺本城へ手勢を派遣して城下を焼き払い、那古野城に帰還した。
1554年
1月26日
織田信長は安藤守就に礼を言い、安藤守就は美濃国に帰還した。
1554年
1月27日
安藤守就からこの戦いの話を聞いた斎藤秀龍は「凄まじい男だ。隣には嫌なやつがいるものだ」と言った。戦いの終わったあと、村木砦は全て焼き払われた。