一万人の戦国武将

松平竹千代(徳川家康)が人質となる

背景

1547年 織田信秀は松平忠倫を味方に引き入れて岡崎城を攻めるなど、三河国に兵を進めてきた。松平広忠は今川義元に援助を求め、人質を出すことを条件にこれを承諾した。そこで松平広忠は長男の松平竹千代(徳川家康)を人質として駿府へ送ることにした。

経緯

1547年
8月2日
松平竹千代(徳川家康)は、岡崎をたち、西郡から船で田原へいき、そこから陸路駿府へむかう予定だった。
駿府に送られる途中、織田弾正忠家に寝返った田原城の戸田康光によって身柄を拘束された。戸田康光は徳川家康を海路で尾張国熱田に送り、織田弾正忠家に引き渡したのである。戸田康光は謝礼として永楽銭1000貫文(500貫文とも100貫文ともいう)を受け取った。
徳川家康は熱田につくと、熱田社大宮司の加藤順盛に預けられた。これを聞いた織田信長が松平竹千代(徳川家康)に会ったとされる。これ以後2年間、徳川家康は熱田で織田弾正忠家の人質として過ごすことになる。