織田勝長
(おだかつなが)
| 生年月日 | 1560年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1582年6月2日 |
| 幼名 | 坊丸 |
| 通称 | 源三郎 |
| 別名 | 津田源三郎 |
| 官位 | |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信長 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1560年頃 | 尾張国の戦国大名の織田信長の五男として生まれる。 |
|---|---|
| 1560年 | 武田晴信の養子(人質)となった。 |
| 1581年 | 武田勝頼が織田勝長を送り返した。武田勝頼は織田信長と決戦する覚悟を固めたためであろう。 |
| 1581年 | 織田信長は織田勝長を犬山城主とした。 |
| 1582年 3月 |
武田攻めの際には織田勝長は上野国を討った。 |
| 1582年 6月2日 |
本能寺の変の際には京都二条御所にあって討死した。 |
備考
| 人物 | 織田家は津田家と深い関係にあったとみられ、織田勝長は「信長公記」では津田源三郎とも呼ばれている。また、系図・序列で羽柴秀勝の弟とされているが、長幼順では死亡時に子どもがいたことから20歳以上であり、羽柴秀勝の兄と考えられる。 |
|---|---|
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 歴史群像シリーズ27 風雲信長記(学研)1992年発行 |
織田長孝
(おだながたか)
| 生年月日 | 1572年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1606年7月5日 |
| 幼名 | |
| 通称 | |
| 別名 | 織田長一 |
| 法号 | 照厳玄高 |
| 官位 | 従五位下・河内守 |
| 家系 | 長益流織田家 |
| 父 | 織田長益 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1572年頃 | 織田長益の子として生まれる。 |
|---|---|
| 1600年 | 関ヶ原の戦いでは父の織田長益とともに徳川家康方に属し、織田長孝は西軍の将の戸田重政を斬った。 |
| 1600年 | 織田長孝は関ヶ原の戦いの戦功により、美濃国野村に1万石を与えられた。 |
| 1606年 7月5日 |
死亡した。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田長次
(おだながつぐ)
| 生年月日 | 1580年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1600年9月15日 |
| 幼名 | 縁 |
| 通称 | 長兵衛 |
| 別名 | |
| 官位 | |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信長 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1580年頃 | 織田信長の十二男(末子)として生まれる。 |
|---|---|
| 年代不詳 | 織田長次は羽柴秀吉の馬廻となったといわれる。 |
| 1600年 9月15日 |
関ヶ原の戦いで戦死した。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田長利
(おだながとし)
| 生年月日 | 1548年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1582年6月2日 |
| 幼名 | |
| 通称 | 又十郎 |
| 別名 | 津田長利 |
| 官位 | |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信秀 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1548年頃 | 尾張国の戦国大名の織田信秀の十二男として生まれる。 |
|---|---|
| 1574年 | 織田信長の伊勢長島一揆討伐に従軍。 |
| 1581年 | 京都馬揃には、織田信長の連枝衆の一人として参加。 |
| 1582年 6月2日 |
本能寺の変に際し二条御所で戦死した。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田長益
(おだながます)
| 生年月日 | 1547年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1621年12月13日 |
| 幼名 | 源五 |
| 通称 | 源五郎 |
| 別名 | |
| 法号 | 有楽斎如庵 |
| 官位 | 従四位下・侍従 |
| 家系 | 織田弾正忠家 長益流織田家 |
| 父 | 織田信秀 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1547年 | 尾張国の戦国大名の織田信秀の十一男として生まれる。 |
|---|---|
| 1582年 | 織田信長の部将として甲州征伐に参加した。 |
| 1582年 6月2日 |
本能寺の変のときは京都にいたが、幸運にも逃れた。 |
| 年代不詳 | 羽柴秀吉に仕えた。 |
| 年代不詳 | 出家して有楽斎如庵と号し、千利休から台子を伝授されたといわれる。 |
| 年代不詳 | 千利休の亡き後は羽柴秀吉の茶の湯をつかさどった。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いでは徳川家康に従った。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いの後は大和国で加増され3万石の大名となった。織田長益は淀殿の叔父にあたるため大坂にあって羽柴秀頼を補佐し、かたわら大坂方の情報を徳川方に通報した。 |
| 年代不詳 | 徳川家康から江戸に屋敷を与えられたが、その跡が有楽町と名付けられた。 |
| 1614年 | 大坂冬の陣には大坂城中にあった。 |
| 1615年 | 大坂夏の陣の直前に大坂城を退去した。 |
| 年代不詳 | 晩年は京都で茶事に余生を送った。 |
| 1621年 12月13日 |
京都で死亡。75歳。 |
備考
| 人物 | 織田長益の茶説・茶法は甥の織田貞置によって「貞置集」にまとめられており、織田貞置は織田長益を祖とする茶の湯の一派を開いた。 |
|---|---|
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
織田信興
(おだのぶおき)
| 生年月日 | 1545年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1570年11月21日 |
| 幼名 | |
| 通称 | 彦七郎 |
| 別名 | |
| 官位 | |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信秀 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1545年頃 | 尾張国の戦国大名の織田信秀の八男として生まれる。 |
|---|---|
| 年代不詳 | 尾張国の小木江城主。小木江城は木曾川下流にある平城で、対岸は伊勢長島。 |
| 1570年 11月21日 |
織田信興は長島の一向一揆に攻撃され、自刃して落城した。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田信雄
(おだのぶかつ)
(おだのぶお)
| 生年月日 | 1558年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1630年4月30日 |
| 幼名 | 茶筅 |
| 通称 | 三介 |
| 別名 | 織田信意 北畠具豊 |
| 法号 | 常真 |
| 官位 | 侍従 左近衛権中将 大納言 正二位・内大臣 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信長 |
| 母 | 生駒家の娘 |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1558年 | 織田信長の三男として生まれる。母は生駒家の娘。 |
|---|---|
| 1569年 | 織田信長の伊勢国侵攻後、北畠具房の猶子となる。 |
| 1575年 | 伊勢国司となり、織田信長の征服戦に各地を転戦した。 |
| 1582年 6月13日 |
本能寺の変後、近江国土山まで軍を進めたが、明智光秀敗死の報をうけて帰国した。 |
| 1582年 | 織田姓に復す。 |
| 1582年 | 清洲会議では織田信長の継嗣となることを画策したが果たせず、清洲城と尾張国・伊賀国・南伊勢の100万石を領した。 |
| 1583年 | 織田信孝が羽柴秀吉と対立すると、織田信孝の岐阜城を攻め敗死させた。まもなくして羽柴秀吉と関係を絶った。 |
| 1584年 | 徳川家康と連合して小牧・長久手で羽柴秀吉と戦った。 |
| 1584年 11月 |
羽柴秀吉と単独講和し、羽柴秀吉に属した。 |
| 年代不詳 | 越中征伐に参加。 |
| 1590年 | 小田原の役で活躍した。 |
| 1590年 | 徳川家康の旧領への転封を拒否して羽柴秀吉の怒りを買い、所領を奪われて下野国烏山に配流され、出家した。 |
| 年代不詳 | 徳川家康の斡旋により羽柴秀吉から許された。 |
| 1592年 | 肥前国名護屋城で羽柴秀吉に再出仕し、相伴衆に加えられ、大坂天満に寓居した。その後も徳川家康に心を寄せていた。 |
| 1600年 | 関ヶ原前夜には京畿の情報を徳川家康に通報した。 |
| 1614年 | 大坂冬の陣に際し羽柴秀頼の招きを断って京都に移った。 |
| 1615年 | 徳川家康から大和国・上野国で5万石を与えられた。 |
| 1630年 4月30日 |
京都で死亡。73歳。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田信包
(おだのぶかね)
| 生年月日 | 1543年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1614年7月17日 |
| 幼名 | |
| 通称 | 三十郎 |
| 別名 | 織田信良 織田信兼 |
| 法号 | 老犬斎 |
| 官位 | 上野介 従三位・左中将 |
| 家系 | 織田弾正忠家
信包流織田家 |
| 父 | 織田信秀 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1543年 | 尾張国の戦国大名の織田信秀の六男として生まれる。 |
|---|---|
| 年代不詳 | 伊勢長野家の養子となったが、謀計とわかって帰ったといわれる。 |
| 1569年 | 織田信長の北伊勢侵攻ののち伊勢国上野城主。 |
| 1575年 | 越前平定に参加。 |
| 1577年 | 紀州攻めに参加。 |
| 年代不詳 | 石山合戦に参加。 |
| 1581年 | 京都の馬揃には、織田信長の連枝衆として参加した。 |
| 1582年 | 本能寺の変後は羽柴秀吉に属し、伊勢国安濃津城主。 |
| 1590年 | 小田原の役に従軍。北条家の助命を斡旋して羽柴秀吉の機嫌を損じた。 |
| 1594年 | 安濃津を没収された。代わりに近江国で所領をうけたものの剃髪して老犬斎と号し、京都慈雲寺に起居した。 |
| 年代不詳 | 羽柴秀吉の御咄衆に加えられた。 |
| 1598年 | 丹波国柏原3万6000石をうけた。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いには西軍に属して田辺城攻撃に参加した。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い後、旧領安堵をうけ、以後大坂で羽柴秀頼に近侍した。 |
| 1614年 7月17日 |
病没。72歳。67歳説がある。公の席で吐血して倒れたといわれ、片桐且元による毒殺説が立った。 |
備考
| 人物 | 画枝にすぐれ、「皇朝名画拾彙」にその名をとどめている。 |
|---|---|
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
織田信清
(おだのぶきよ)
| 生年月日 | 1532年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | |
| 幼名 | |
| 通称 | 十郎左衛門 |
| 別名 | |
| 官位 | 下野守 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信康 |
| 母 | |
| 正室 | 織田信秀の娘(犬山殿) |
| 側室 |
年表
| 1532年頃 | 犬山城主の織田信康の長男として生まれる。 |
|---|---|
| 1547年 | 犬山城主となる。 |
| 1558年 | 織田信長が一族の織田信安の岩倉城を攻め、浮野で戦って信安軍を破った。織田信清はこの戦いに協力した。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 歴史群像シリーズ27 風雲信長記(学研)1992年発行 |
|---|
織田信貞
(おだのぶさだ)
| 生年月日 | 1574年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1624年6月6日 |
| 幼名 | 人 |
| 通称 | 藤四郎 雅楽助 |
| 別名 | |
| 官位 | 従五位下・左京亮 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信長 |
| 母 | 土方雄久の娘? |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1574年 | 織田信長の九男として生まれる。母は土方雄久の娘とされるが、土方雄久が1553年生まれであるため、姉妹もしくは別人ではないかと思われる。 |
|---|---|
| 1582年 | 本能寺の変後、羽柴秀吉に仕えて馬廻となり、近江国神崎郡・蒲生郡のうちで1000石を与えられた。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城攻撃に参加。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い後、所領を没収された。 |
| 年代不詳 | 徳川家康の麾下に入った。 |
| 1614年 | 大坂の陣で徳川家康に従軍した。 |
| 1624年 6月6日 |
死亡。51歳。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田信重
(おだのぶしげ)
| 生年月日 | 1565年頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1625年頃 |
| 幼名 | |
| 通称 | 三十郎 |
| 別名 | |
| 官位 | 従五位下・民部大輔 |
| 家系 | 信包流織田家 |
| 父 | 織田信包 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1565年頃 | 織田信包の長男として生まれる。 |
|---|---|
| 1582年 | 羽柴秀吉に仕える。 |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦いに従軍。 |
| 1587年 | 島津征討に父の代理で参加。 |
| 1594年 | 伏見城の工事を分担した。 |
| 1594年 | 伊勢国林城主となり、1万石を領した。 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い後、旧領を安堵された。 |
| 1615年 閏6月 |
前年に死亡した父の織田信包の遺領相続について弟の織田信則を訴え、かえって改易され林藩は廃藩となった。 |
| 1625年頃 | 死亡 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田信忠
(おだのぶただ)
| 生年月日 | 1557年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1582年 |
| 幼名 | 奇妙 |
| 通称 | 勘九郎 秋田城介 |
| 別名 | |
| 官位 | 従三位・左近衛権中将 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信長 |
| 母 | 生駒家の娘 |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1557年 | 織田信長と生駒家の娘の嫡男(次男)として生まれる。 |
|---|---|
| 1572年 | 元服。以後父の織田信長に従って各地を転戦。 |
| 1575年 | 長篠の戦いののち、美濃国岩村城を攻略した戦功により、秋田城介に任じられた。 |
| 1576年 | 織田信長が安土城に移ったあと岐阜城主となり、美濃国・尾張国を譲られた。 |
| 1582年 | 武田勝頼討伐に先鋒大将となって活躍。 |
| 1582年 6月2日 |
羽柴秀吉救援のため中国出陣の途中、京都の妙覚寺にとまり、明智光秀の反乱にあった。織田信忠は織田信長のいる本能寺を救援しようとして果さず、二条御所に入り、誠仁親王らを避難させたあと明智光秀軍と戦い、自刃した。26歳。 |
備考
| 参考文献 | 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
織田信長
(おだのぶなが)
| 生年月日 | 1534年5月12日頃 |
|---|---|
| 没年月日 | 1582年6月2日 |
| 幼名 | 吉法師(きっぽうし) |
| 通称 | 三郎 |
| 別名 | |
| 官位 | 上総介 弾正忠 従三位・参議 権大納言 右大将 内大臣 正二位・右大臣 贈従一位・太政大臣 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信秀 |
| 母 | 土田御前 |
| 正室 | 斎藤利政の娘・帰蝶(濃姫) |
| 側室 | 生駒家宗の娘・吉乃(きつの) |
年表
| 1534年 5月12日頃 |
尾張国の戦国大名の織田信秀と正室の土田御前との次男または三男として尾張国の勝幡城で生まれる。那古野城で生まれたという説があるが、織田信秀が那古野城を奪ったのは1538年頃とされる。幼名は吉法師。織田信秀は生まれたばかりの織田信長に、宿老の林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介らをつけた。 |
|---|---|
| 1538年 以降 |
織田信秀が古渡城に移り、那古野城に残った織田信長は幼少で城主となった。1535年とする説がある。 |
| 1546年 | 古渡城で元服した。 |
| 1547年 | 織田信長は今川方の三河国吉良大浜を攻めて、初陣を飾った。 |
| 1547年 8月2日 |
織田弾正忠家の人質となった松平竹千代(徳川家康)と織田信長がこのときはじめて対面したとされる。 |
| 1548年 秋 |
織田信秀と斎藤利政が講和を結び(濃尾同盟)、織田信長は斎藤利政の娘の帰蝶(濃姫)と結婚した。婚儀は古渡城で行われた。講和および織田信長と帰蝶の結婚にこぎつけたのは、織田信長の傅役の平手政秀だった。1549年とする説がある。 |
| 1549年 3月頃 |
織田信秀の隠居・急死・重病などの異変によって家督を相続した。 |
| 1551年 3月3日 |
父の織田信秀が流行り病にかかって死亡した。織田信秀の没年には1549年、1552年の説がある。葬儀は織田信秀が建立した万松寺で行われた。葬儀に際して、織田信長は茶せん髪で袴をつけない異様な風体であらわれ、抹香を仏前に投げかけるという奇異な行動をとり、「大うつけ」」と周囲の反感をかった。織田信長は織田信秀の死より前に家督を相続していたと考えられる。 |
| 1552年 8月16日 |
坂井大膳・坂井甚助らが織田信長を討とうとした。 |
| 1553年 閏1月13日 |
織田信長の傅役の平手政秀が所領の尾張国志賀村の屋敷でとつぜん自害した。平手政秀が自害したのは、いっこうに行状を改めようとしない織田信長を諌め、傅役としての責任をとるためだったとも、嫡子の駿馬を織田信長が所望したが、嫡子が断ったことから不和になったためともいわれる。平手政秀の突然の自害に織田信長は衝撃をうけ、尾張国小木村に政秀寺を建立して菩提を弔った。 |
| 1553年 4月下旬 |
斎藤利政と織田信長が濃尾国境付近の中立地帯、尾張国冨田の聖徳寺で会見した(聖徳寺の会見)。 |
| 1554年 | 織田信長が小者頭の推薦で羽柴秀吉を小者として取り立てた。 |
| 1554年 7月12日 |
尾張国守護の斯波義統が織田広信とその家臣で小守護代の坂井大膳らに攻められ、清須の守護館で自刃した。子の斯波義銀が川狩にでかけた留守をねらったものだった。斯波義銀は織田信長を頼って那古野城に走った。織田信長は守護への反逆者を討つことを名分とした。 |
| 1555年 4月20日 |
守山城の叔父の織田信光と共謀して清須城を攻め落とし、織田広信を切腹させ、坂井大膳を追放した。織田信長は織田信光を守護代にして尾張国下4郡をまかせるという約束を反故にして、居城を那古野城から清須城に移した。 |
| 1556年 4月20日 |
美濃国長良川河畔で斎藤利政と子の斎藤義龍が戦い、斎藤利政が敗死した。織田信長は舅の斎藤利政を支援すべく出兵したが、斎藤利政の敗死を知って途中から引きかえした。斎藤利政の死で斎藤・織田両家の同盟は破れた。 |
| 1556年 8月24日 |
弟の織田信勝擁立をはかった林秀貞・柴田勝家らが反織田信長の兵をあげた。両軍は稲生付近で衝突し、織田信長が勝利をおさめた。織田信長は織田信勝の居城の末森城に迫ったが、末森城にいた母の土田御前のとりなしで和睦が成立した。 |
| 1556年 | 織田信長が尾張国小折村の土豪の生駒家宗の娘の吉乃と結婚した。織田信長の正妻である斎藤利政の娘の帰蝶(濃姫)には子どもがなかった。吉乃は前年に夫を合戦で失い、実家に戻っていた。生駒家の屋敷は広大で、さながら城郭のようだったという。 |
| 1557年 | 織田信長は清須から近臣十数人を供に足しげく生駒屋敷に通うようになり、やがて吉乃は懐妊し、嫡男の織田信忠(奇妙)が生まれた。織田信長は嫡男の誕生に狂喜乱舞して、下男下女たちと朝まで踊りあかしたという。 |
| 1557年 11月2日 |
織田信長と弟の織田信勝は家督を争っていたが、織田信長に対する敵対行為が次第にエスカレートし、尾張国上4郡守護代の岩倉城の織田信安と共謀して、ふたたび反旗をひるがえした。織田信勝からうとまれていた柴田勝家が謀反を織田信長に密告したため、織田信長は病と称して織田信勝を清須城へ見舞いに誘いだし、殺害した。 |
| 1558年 5月28日 |
岩倉城の織田信賢が美濃国の斎藤義龍と結んで織田信長を攻撃した。織田信長は浮野に兵を進めて織田信賢をやぶった。 |
| 1558年 7月 |
織田信長は岩倉城を攻めた。 |
| 1559年 2月2日 |
織田信長は80人ほどの供をつれて上洛し、将軍の足利義輝に拝謁した。足利義輝から尾張国支配の大義名分を得ることが上洛の目的だった。将軍への謁見を終えた織田信長は京都・奈良・堺を見物したのち、八風峠を越え、伊勢を経て清須に帰った。 |
| 1559年 3月 |
岩倉城を攻撃して陥落させ、織田信賢を倒した。尾張国の平定をほぼなしとげた。この過程で鉄砲と長槍で武装し、織田信長の手足となって動く強力な家臣団の編成が進んだ。 |
| 1560年 5月19日 |
駿河国・遠江国・三河国、さらに尾張国の一部まで勢力下においていた今川義元が2万5000の大軍を率いて本格的な尾張国侵攻を開始した。織田信長は離間策などを用いて、尾張国内の今川方部将の情報源を絶ち、みずから3000の兵を率いて出陣した。途中、熱田神社で戦勝祈願をしたあと、支城・砦に1000を残し、2000の精鋭部隊を率いて、桶狭間山に昼食休憩中の今川義元を襲い、その首をとった(桶狭間の戦い)。織田信長が、戦国の表舞台に登場した瞬間といってもよい。 |
| 1561年 5月13日 |
斎藤義龍が死亡し、跡を斎藤龍興が継ぐと好機とみた織田信長は、木曾川・飛騨川(長良川)の3ヵ所の船渡しを越えて、西美濃へ侵攻。勝村に野陣した。森部での戦いを皮切りに、以後、十四条・軽海・神戸市場などで斎藤方と交戦、稲葉山城下の井ノ口にまで進出した。この戦いで織田信長は墨俣の城砦を斎藤方から奪い、改修して、以後の美濃国侵攻の橋頭堡とした。 |
| 1561年 | 織田信長は、尾張国守護の斯波義銀を追放し、尾張守護家は断絶した。 |
| 1562年 1月15日 |
岡崎城主の徳川家康(松平元康)が、織田信長の清須城を訪ね、両者の盟約関係(清須同盟)が成立した。織田信長は徳川家康に対して、「元康は東へいけ。おれは西へいく」といったという。織田信長は三河国の徳川家康と手を結び、東方の安全を確保したうえで、美濃国の斎藤龍興と戦った。斎藤利政の死後、濃尾同盟が破綻したからである。 |
| 1562年 2月 |
織田信長は、鋳物師の水野太郎左衛門(範直)に領国内の寺社で使用する梵鐘・塔の九輪・鰐口の製造を独占することを許し、あわせて鍋・釜などの専売権を認めた(尾張の鋳物師を保護)。 |
| 1563年 7月 |
本格的な美濃国攻めのため、居城をこれまでの清須城から小牧山城に移した。このように居城を前線基地として移していったところが織田信長の特徴である。 |
| 1563年 12月 |
織田信長は領国内の瀬戸物を保護する制札をだした。内容は、瀬戸物商人は領国内を自由に往来してよい、瀬戸の住人には新たな諸役を免除する、瀬戸の商人というだけで連帯責任を負わされて他の商人の担保として品物などを差しおさえれる郷質・所質は免除される、というものだった。 |
| 1564年 10月1日 |
織田信長に朝廷の料所の回復などを命じる勅使として、内裏御倉職の立入宗継を派遣した。幕府には朝廷を援助する余裕はすでになく、朝廷はしきりに各地の戦国大名に経済援助を求めていた。織田信長は上機嫌で「天下を平定し、天皇のお役にたちたい」と語った。立入宗継の報告をうけた天皇はおおいに喜んだという。この勅使派遣は織田信長の美濃国攻略を勢いづけ、上洛へのはずみとなった。 |
| 1565年 11月13日 |
織田信長の養女(美濃国苗木城主の遠山友勝の娘で織田信長の姪)と武田晴信の4男の武田勝頼が結婚した。これにより織田家と武田家の同盟が成立した(甲尾同盟)。 |
| 1566年 4月 |
織田信長は朝廷に馬・太刀・銭3000疋を献上した。 |
| 1567年 9月初旬 |
尾張国の小牧山城を出撃した織田信長は美濃国稲葉山城の城下の井ノ口を焼きはらって占領した。稲葉山城奪取は8月1日から15日のことともいわれている。織田勢と斎藤勢は野戦を戦ったのだが、織田勢が謀略を用いて斎藤勢を崩し、その余勢を駆って稲葉山城を攻め落としたともいう。斎藤龍興は稲葉山山上に追いつめられて降伏し、船で伊勢長島におちのびた。美濃国の大部分を制圧していた織田信長ではあったが、斎藤家の本城の稲葉山城攻めは、西美濃の平野部を抑える稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の西美濃三人衆にはばまれていた。その三人衆が斎藤龍興を見限り、織田信長に内応してきた。この内応を聞いた織田信長は即座に出陣、12年越しの美濃国制圧を完成させた。小牧山城から稲葉山城に居城を移した織田信長は、禅僧沢彦宗恩の提案により、それまで井ノ口とよばれていた城下を、雅名として一部の人にしか使われていなかった中国周朝の故地岐山にちなんだ岐阜と改名し、城も岐阜城とよばれるようになった。岐阜と改名したのと前後して「天下布武」という印判を使いはじめた。 |
| 1567年 10月 |
織田信長は、戦災からの復興を援助すべく、城下井ノ口(岐阜)に隣接する加納に制札を下した。制札の宛名は「楽市場」となっており、真宗寺院円徳寺の寺内町に以前からあった楽市場にあてたものだった。内容は3ヵ条から成り、第1条では、来往者に種々の税を免除し、両国内の自由な往来とその身分を保証、第2条では、押買・狼藉・喧嘩・口論を禁止、第3条では、理不尽な警察権の行使や場所取りを禁止した。 |
| 1567年 11月 |
織田信長のもとへ朝廷の御倉職をつとめる立入宗継が、11月9日付の正親町天皇綸旨と権大納言の万里小路惟房の副状をたずさえて来訪した。正親町天皇綸旨は、誠仁親王の元服費用の拠出・内裏の修理・美濃国・尾張国の両国の朝廷領の回復を要請しており、文面には「古今無双の名将」などと世辞も書きそえている。正親町天皇は、毛利元就らの献資によって即位式を行うなど、その財政は窮乏状態にあり、織田信長など有力大名に援助を要請していた。天皇の要請という大義名分を得て、織田信長は本格的に上洛の準備を開始する。 |
| 1567年 | 織田信長の妹のお市の方が、小谷城の浅井長政に嫁いだ。1568年1月という説があるが、このほかに1561年・1563年・1564年とする説もある。浅井長政との婚約は数年前に整っていたともいうが、織田信長が美濃国を制圧して以後、にわかに婚約の話がまとまり、輿入れの運びとなったようである。織田信長は上洛への道を開くために近江国の浅井家と同盟を結ぶことにした。浅井長政は、祖父の浅井亮政の代からの越前朝倉家との同盟関係を理由に、もし朝倉家と争う場合は事前に通告することを条件としてこれを承諾した。同盟の証としてお市の方が浅井長政のもとへ嫁いだのである。この同盟によって、美濃国から京都への道筋で織田信長に敵対する勢力は南近江の六角家のみとなった。 |
| 1568年 2月 |
織田信長は北伊勢を攻略し、子の織田信孝を神戸具盛の養子とし神戸家をつがせる。滝川一益らに命じて支配にあたらせた。 |
| 1568年 7月22日 |
織田信長は越前国一乗谷の朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃国西荘の立政寺に迎えた。 |
| 1568年 7月27日 |
織田信長は立政寺で足利義昭とはじめて会見し、銭1000貫・太刀・鎧・馬などを進上して足利義昭を歓待した。 |
| 1568年 8月2日 |
織田信長は近江国甲賀郡の土豪に足利義昭上洛への協力を要請した。 |
| 1568年 8月7日 |
織田信長は近江国の佐和山城に赴き、京都所司代職につける条件で六角義賢の協力を要請した。 |
| 1568年 8月14日 |
織田信長の7日間におよぶ説得にも六角義賢は応じず、織田信長はいよいよ大軍を率いての上洛を決意する。 |
| 1568年 9月 |
織田信長は、ふたたび加納にほぼ同内容の制札を下したが、その宛名は「加納」となっており、第2条で「楽市楽座の上、諸商売すべき事」と明記した。この加納に対してだされた楽市令は、戦乱で荒廃した楽市の機能を保証し、その復興をめざすものであるが、そのような楽市場の存在を前提として、戦国大名や織豊政権は、新城下町や新市場の楽市化を定めた楽市令をだすようになる。本来、権力から自由だったはずの加納の楽市場は、制札によって、織田信長の統制下におかれることになる。 |
| 1568年 9月7日 |
織田信長は美濃国・尾張国・北伊勢の兵に徳川家康の援兵を加え、6万(4万とも)の大軍を率いて岐阜を出発した。 |
| 1568年 9月12日夜 |
織田信長は六角家の支城の箕作城をおとした。 |
| 1568年 9月13日 |
織田信長は六角義賢・六角義治父子の居城の観音寺城をおとして、甲賀山中へと敗走させた。 |
| 1568年 9月26日 |
織田信長は足利義昭を奉じて入京した。織田信長は東寺に陣をとり、足利義昭は清水寺に入った。織田軍の入京のうわさで、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した織田信長は、細川藤孝に御所の警備を命じる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸・三好政康・岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された14代将軍の足利義栄が摂津富田城に、三好三人衆がそれぞれ山城国勝竜寺城・摂津国芥川城・越水城に拠って織田信長に抵抗していた。 |
| 1568年 9月28日 |
畿内の諸大名・商人らが先を争って新しい支配者を訪れた。大和国の多聞城の城主の松永久秀が人質をだし、「我朝無双」と称された唐物の茶入れ「付藻茄子」を献上して、織田信長に大和一国の支配をまかされた。堺会合衆のひとりの今井宗久は織田信長に面会し、秘蔵の茶壺「松島」と茶入れ「紹鷗茄子」を献上した。織田信長の畿内制圧は、いともかんたんに成功した。 |
| 1568年 9月29日 |
織田信長は勝竜寺城を攻略した。摂津富田城・芥川城・越水城も数日のうちに攻略し、三好党は阿波国へ敗走した。 |
| 1568年 9月末頃 |
織田信長は足利義昭からの畿内一国を与えようとの申し出を断り、かわりに流通の拠点である和泉国の堺と近江国の大津・草津に代官をおくことを認めさせた。織田信長の流通統制策の一環だった。 |
| 1568年 10月2日 |
織田信長は和泉国・摂津国の諸都市に矢銭と称する軍事費用を課し、摂津国の石山本願寺には5000貫、和泉国の堺には2万貫を要求した。石山本願寺などは応じたが、堺のみは町の運営を担う36人の会合衆が結束し、要求を拒否した。今井宗久のような人物は少数派だった。堺は以前から三好三人衆に心を寄せるものも多くいた。街の周囲を濠をめぐらすなどの自衛態勢を整え、治外法権的な自治を行ってきた自分たちの力に対する自信もあった。織田信長の要求を拒否した会合衆は、大勢の浪人を雇い入れ、濠を深くし、櫓を高くして合戦の準備をする一方、平野荘の年寄衆にも共同防衛を申し入れ織田信長への抵抗の姿勢を見せた。 |
| 1568年 10月8日 |
織田信長は朝廷に銭1万疋を献上した。 |
| 1568年 10月18日 |
織田信長の奏請によって朝廷は足利義昭を征夷大将軍に任命し、同時に参議・左近衛権中将に任じ、従四位下に叙した。三好三人衆らに擁立された14代将軍の足利義栄は、将軍在職わずか7ヶ月で前月摂津富田で没しており、足利義昭は晴れて悲願の室町幕府15代将軍となった(15代将軍に就任)。 |
| 1568年 10月23日 |
織田信長は足利義昭から饗応され能楽を鑑賞した。その席上で織田信長は足利義昭から副将軍か管領職につくよう要請されたが辞退した。 |
| 1568年 10月24日 |
織田信長は足利義昭から感状に「御父織田弾正忠殿」と宛名され、織田信長を「武勇天下第一」と褒めあげた。 |
| 1568年 10月 |
織田信長は分国中の関所の撤廃を発令した。この政策は都の貴賤群衆から一様に歓迎された。中世の関所は、領主らが関銭の徴収を目的として勝手に設置するため、その数は膨大なもので、ただ流通を阻害するのみでなく、関銭分が物価を押しあげるなど、さまざまな弊害をもたらしていた。織田信長にとっては、畿内を統治するためにも、軍勢の迅速な移動と物資補給のためにも、関所の撤廃は急務だった。関所撤廃は分国に限定されており、商工業者の座が流通路にもつ特権を否定していないなど、不徹底なものだったが、織田信長の経済政策は現実に対応しつつ進められていく。 |
| 1568年 10月 |
織田信長は差出検地を行う。 |
| 1569年 1月5日 |
織田信長の京都不在を狙い、本圀寺を仮の宿所にしていた足利義昭政権の転覆をはかる三好三人衆による襲撃事件が起こった。織田信長が大雪のなかを岐阜から一騎駆けで入京する直前に三好三人衆は敗退していた。事件の教訓から将軍を守る強固な居館が必要となった。 |
| 1569年 1月10日 |
三好三人衆による京都本圀寺の足利義昭襲撃事件が起こると、織田信長は逆徒の出撃基地になったとして堺を問責した。町を焼きはらい、老若男女をなで斬りにするとの織田信長の威嚇の前に、ついに会合衆の合議によって堺は要求に屈し、矢銭2万貫を上納した。堺は150年間の自治に幕をおろした。 |
| 1569年 1月 |
織田信長は足利義昭に「殿中の掟」を定めて規制を加えた。 |
| 1569年 2月2日 |
織田信長は勘解由小路室町の真如堂跡地に将軍足利義昭の新御所の造営を起工した。集められた2万5000人もの人夫は、その出身が五畿内・近国14ヵ国におよぶものだったという。この地は13代将軍足利義輝が幕府を構えた由緒をもつ所でもあった。 |
| 1569年 2月28日 |
織田信長は上京・下京に高札をかかげ、撰銭令を発した。撰銭令は7条からなり、最初の3条で、悪銭10種を3つの等級にわけ、それぞれ良銭の2分の1・5分の1・10分の1という比率での通用を認めている。以下の4条で、取引を時の相場で行うこと、悪銭を理由に値段の引き上げをしてはならないこと、取引には良銭を半分含めること、悪銭の売買は停止すること、使用銭の価値や数量の検査を妨害した者は処罰されることを定めている。この条例は、通用比率を決めたうえで悪銭の全面的な使用を認めるという、商取引の現状にあわせた実用的なものだった。悪銭の売買の禁止や取引時の悪銭の混入率の法定などは、幕府などの撰銭令でもだされていた。こののち、大坂・奈良などにあいついで発令された。 |
| 1569年 3月2日 |
正親町天皇が勅使の万里小路惟房と広橋兼勝を派遣して織田信長に副将軍補任の内命を伝えた。織田信長は奉答を避けた。勅使が派遣された背景には、足利義昭から朝廷への強い働きかけがあったものと推測される。織田信長を幕府高官に就任させてその懐柔をはかるつもりだった。しかし、織田信長は従来より足利義昭の下風に立つ意思はまったくなく、明確なかたちで足利義昭との主従関係を結ぶ考えのないことをあらためて表明したといえる。副将軍職を拒んだのと同じく、朝廷の官位昇進も辞退しつづけた。 |
| 1569年 4月3日 |
京都から追放されていたイエズス会宣教師のルイス・フロイスが京都所司代の和田惟政に働きかけた高山図書の尽力により、織田信長に謁見した。 |
| 1569年 4月8日 |
織田信長はルイス・フロイスに朱印状を与え、バテレンの居住の自由と諸役の免許を保証した。この布教許可の朱印状獲得とあわせ、キリスト教は勢力を広げることとなる。 |
| 1569年 4月14日 |
織田信長がみずから指揮し、突貫工事により新御所が完成した。足利義昭の移徙が行われた。当時の公家の日記など良質な資料では、武家御所・武家御城・室町殿などと呼ばれていた。 |
| 1569年 4月20日 |
織田信長の面前で、キリシタンを嫌う朝山日乗とルイス・フロイス、修道士のロウレンソとの間で宗論が行われた。朝山日乗は議論に敗れた。 |
| 1569年 4月25日 |
議論に敗れた朝山日乗は、織田信長が京を不在にすると朝廷から綸旨を獲得し、バテレン追放をはかった。ルイス・フロイスが岐阜にいる織田信長を訪ね抗議をしたため朝山日乗の企ては失敗した。 |
| 1569年 8月頃 |
織田信長は南伊勢の伊勢北畠家の一族の木造具政の内応をうけると、約8万の兵をしたがえて南伊勢に侵入し、支城にはいっさい目もくれず一挙に大河内城を完全包囲する作戦をとった。 |
| 1569年 8月1日 |
織田信長は羽柴秀吉・坂井政尚を但馬国侵攻に派遣した。但馬国侵攻は、安芸国の毛利元就から尼子家の背後を脅かすことを要請されたからであるが、真のねらいは生野銀山の掌握にあったようだ。 |
| 1569年 8月10日頃 |
兵2万をしたがえて但馬国に入った羽柴秀吉・坂井政尚は、10日余で銀山城をはじめ垣屋・子盗などの18の諸城を攻略し、生野銀山を接収した。堺に亡命していた山名祐豊は今井宗久の斡旋により織田信長から帰国を許され、銀山の管理をまかされた。のちに織田信長の命で生熊左兵衛尉が代官となり、直務支配が続いた。 |
| 1569年 9月頃 |
織田信長は撰銭令に7条の追加条例をだし、金銀銭の比価の公定や米による取引の禁止など、画期的な貨幣政策を打ち出した。 |
| 1569年 10月4日 |
織田信長は伊勢国司の北畠具教・北畠具房の父子が拠る大河内城を2ヵ月におよぶ包囲ののち降伏開城させ、次男の織田信雄を北畠具房の養子にさせた。このとき初陣した蒲生氏郷はめざましい戦功により織田信長の女壻となった。伊勢一国を完全制圧した。のちに伊勢国内の関所撤廃を発令した。 |
| 1569年 10月11日 |
織田信長は上洛して将軍の足利義昭に伊勢国制圧を報告した。 |
| 1569年 10月17日 |
織田信長は突如帰国した。政治路線をめぐる確執が原因とみられ、織田信長と足利義昭は不和となった。 |
| 1570年 1月23日 |
足利義昭の反織田信長の動きに対し、織田信長は5ヵ条の条書を認めさせた。条書の内容は、足利義昭のこれまでの命令のすべてを破棄し、今後、足利義昭が諸大名にだす御内書には織田信長の副状をつけること、織田信長に天下をまかせ織田信長の一存でだれでも処罰できること、天下静謐のために足利義昭は朝廷に油断なく奉公することなどだった。この条書によって足利義昭の政治的活動は完全に制約されることになったが、織田信長はさらに畿内・北陸・中国の諸大名に2月中旬までに上洛するよう命じた。この上洛命令には、拒否した大名は征伐できるとあり、織田信長にとっての敵・味方を明確にするねらいが秘められていた。 |
| 1570年 4月20日 |
織田信長は徳川家康・羽柴秀吉を従え、越前国の朝倉義景を討つため3万余の軍勢を率いて京都を出発した。 |
| 1570年 4月26日 |
織田信長は天筒山城・金ヶ崎城などを陥落させ、木ノ芽峠越えに一挙に越前国に乱入する勢いだった。予期せぬ異変が起こった。妹婿の浅井長政の挙兵である。織田信長は耳を疑ったが、すぐに撤退を決意した。南北から挟撃ちされる危険性があるからだった。 |
| 1570年 4月28日 |
織田信長は殿軍として羽柴秀吉を金ヶ崎城にとどめ、供の者数騎をつれ、京都を目指して脱出した(金ヶ崎の退き口)。 |
| 1570年 5月21日 |
織田信長は若狭国から朽木谷をぬけて京都に戻り、岐阜城に帰った。 |
| 1570年 6月4日 |
六角義賢・六角義治の父子は南近江の国人一揆を糾合して野洲川下流に進出した。金森を中心とした一向一揆も加わっていた。永原城から南下した柴田勝家と佐久間信盛の軍勢と激戦となった。六角家は多くの有力家臣を失い甲賀に逃れた。織田信長は野洲川の戦いに勝利した。南近江の政情が安定すると、浅井家配下の堀・樋口を誘降させた。 |
| 1570年 6月28日 |
織田信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った。 |
| 1570年 9月4日 |
織田信長と足利義昭は、野田・福島に陣取った三好三人衆を攻めるため、摂津国中島に陣を張った。この際、織田信長は本願寺へ軍事費を要求したが、本願寺はこれを拒否した。 |
| 1570年 9月12日 夜半 |
石山本願寺の寺内でにわかに門徒が蜂起した。早鐘がつかれる緊迫した空気のなか、織田信長の陣所にむけて鉄砲がうちこまれた。寺内には紀州雑賀門徒の鉄砲衆がいた。織田信長勢のなかにも多くの鉄砲を所持する根来寺衆などが参戦していたため、戦闘は激しい鉄砲のうちあいになった(石山合戦)。 |
| 1570年 9月18日 |
織田信長と足利義昭は朝廷を通じて和睦をはかるが失敗した。 |
| 1570年 9月20日 |
近江国で浅井・朝倉勢と北郡などの一向一揆衆3万人は宇佐山城を攻めたため、織田信長は野田・福島の陣を撤退し、足利義昭とともに帰洛した。宇佐山城の織田信治と森可成は討死した。 |
| 1570年 9月24日 |
織田信長は近江国坂本に出陣した。南近江の志賀で対戦した浅井・朝倉連合軍は比叡山に逃げ込み、山門衆徒の庇護を受けた。織田信長は延暦寺に分国内の山門領の還付を条件として協力を求め、そむけば全山を焼き払うと警告した。しかし、山門衆徒はこれを無視して連合軍擁護の姿勢を強めた。織田信長は比叡山を包囲するが膠着状態が続いた。 |
| 1570年 10月30日 |
織田信長と足利義昭は青蓮院門跡を介して本願寺と和睦をはかった。 |
| 1570年 11月13日 |
織田信長と本願寺の和睦が成立した。 |
| 1570年 11月21日 |
織田信長は六角義賢・六角義治と講和する。 |
| 1570年 11月21日 |
尾張国小木江城に拠っていた織田信長の弟の織田信興が、伊勢長島の一向一揆に城内まで攻め込まれ、天守で自害した。 |
| 1570年 12月13日 |
織田信長は天皇・足利義昭の調停により比叡山にたてこもる浅井長政・朝倉義景と和睦し、兵をおさめた。両者の誓紙交換が行われ、朝倉方から家臣の青木・魚住の子が、織田方から氏家(あるいは稲葉)・柴田の子が、それぞれ人質として交換され、和議の条件が整えられた。しかし、山門衆徒は和平に同意せず、最後まで拒否を貫いた。織田信長は山門衆徒の強硬態度は許容し難く、これが焼き討ちの伏線となった。 |
| 1571年 1月2日 |
織田信長は本願寺と浅井家・朝倉家の分断をはかり、江北の姉川と朝妻間の商人の通行を禁止した。和平は一時的なもので、停戦も有名無実化したことを露呈するものだった。 |
| 1571年 3月4日 |
織田信長は京の町衆を集めて、東福寺で茶会を催す。 |
| 1571年 5月12日 |
織田信長は長島の一向一揆を討つために、津島へ出陣する。 |
| 1571年 7月 |
織田信長は美濃国の刀工の関兼常に鍛冶職を安堵する。 |
| 1571年 8月26日 |
織田信長は浅井長政の小谷城を攻撃する。 |
| 1571年 9月12日 |
織田信長は浅井・朝倉連合軍に味方したとして、比叡山麓の坂本から火を放ち、日吉大社と延暦寺を焼き払い、僧俗の男女数千人を殺戮した(比叡山の焼き討ち)。 |
| 1571年 9月30日 |
織田信長は畿内の各寺社などに反あたり1升ずつの段米を賦課し、妙顕寺に収めさせた。 |
| 1571年 10月15日 |
織田信長は上京・下京の各町に米を年利3割で貸し付け、その利息を朝廷の財政収入とした(朝廷財政を再建)。 |
| 1572年 7月 |
織田信長の部将の佐久間信盛は江南の一向一揆の拠点の金森城・三宅城を落城させた。 |
| 1572年 8月6日 |
織田信長は磐城国田村荘蒲倉の大祥院に塩松の熊野参詣者を独占管轄する先達職を安堵する朱印状を発給した(大祥院に朱印状)。 |
| 1572年 9月 |
織田信長は将軍足利義昭に「異見17ヵ条」を提出する。 |
| 1572年 9月 |
織田信長は近江国金森に楽市令をだした。 |
| 1572年 11月14日 |
武田晴信の部将の秋山虎繁に美濃国岩村城を攻略される。 |
| 1572年 11月20日 |
織田信長は上杉輝虎と同盟を結ぶ。 |
| 1572年 12月2日 |
織田信長は清須の商人の伊藤惣十郎を尾張国・美濃国の商人司にあらためて任命し、両国における輸入・国産呉服の商売統制を命じた(織田信長の流通政策)。 |
| 1572年 12月22日 |
最大の反織田信長の勢力である武田晴信が西上を開始し、遠江国の三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破った(三方ヶ原の戦い)。 |
| 1573年 | 足利義昭が挙兵したが、武田晴信は病死し、この機をとらえて織田信長は足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させた。 |
| 1573年 | 朝倉家・浅井家を滅ぼした。 |
| 1574年 3月 |
織田信長は従三位・参議に任ぜられた。 |
| 1574年 | 石山本願寺の司令をうけた長島一向一揆を討伐。 |
| 1575年 | 織田信長は京都姥柳町に「被昇天の聖母マリア教会」の建設を許可した。この教会は3階建ての和洋折衷建築で、庭にはシュロの木が植えられ、南蛮帽子を売る店もあった。 |
| 1575年 | 石山本願寺の司令をうけた越前一向一揆を討伐。越前一国を完全制圧した。越前国内の関所撤廃を発令した。 |
| 1575年 | 三河国の長篠の戦いで武田勝頼を破った。 |
| 1576年 | 琵琶湖畔の安土に新しく城を築いてそこに移った。安土城には「天守」が築かれた。岐阜城と尾張国・美濃国は嫡男の織田信忠に譲った。天下統一はここに新段階を迎えた。 |
| 1576年 | 石山本願寺が再挙し、毛利家がこれを支援して反織田信長の立場を鮮明にした。 |
| 1577年 | 本願寺を攻撃する一方で、羽柴秀吉を播磨国に、明智光秀を丹波国に派遣して、本格的な中国経略に着手した。 |
| 年代不詳 | 松永久秀・別所長治・荒木村重の謀反などで中国経略はやや頓挫した。 |
| 1580年 | 毛利家と本願寺との分断に成功し、本願寺はついに降伏した。 |
| 1580年 | 織田信長は但馬国攻略の功により羽柴秀吉に生野銀山を与えた。 |
| 1581年 2月 |
京都で盛大な馬揃えを挙行して、信長軍団の威容を天下に示した。 |
| 1582年 3月 |
甲斐国の武田家を滅亡に追い込み、朝廷から、「関白・太政大臣・征夷大将軍、いかようの官にも補任しましょう」という申し出があった。織田信長自身が、この三職のうち、どの官につこうとしていたかはわからない。 |
| 1582年 | 四国出兵を計画し、織田信長は羽柴秀吉の要請によって中国路へ出陣しようとした。 |
| 1582年 6月2日 |
京都本能寺に宿泊中、中国路に出陣するはずであった家臣の明智光秀に急襲され、天下統一直前で自刃した(本能寺の変)。49歳。 |
| 人物 | 若い頃の織田信長は「信長公記」を始め、異様な風体、常識外の行動をとり、人々からは「大うつけ」などといわれていた。織田軍団の強さの秘密は、長篠の戦いで実証された鉄砲や、毛利水軍との戦いに登場した鉄張り軍艦など、先進的な技術を取り込んでいたこと。もう一つは、兵農分離がほかの戦国大名に比べてはるかに進んでいた点である。織田信長は関所を撤廃し、城下町に楽市・楽座をしき、検地指出を徴し、堺などの都市と流通を掌握するなどの統一政策をしき、中世権門に大打撃を与えた。しかし、柴田勝家に越前国を与えたものの全権委任はしていないなど、その政治は織田信長個人の専制支配の色彩が強く、政権の性格としては、戦国大名から大きく脱皮するにはいたっていない。それだけに政権も占領地支配も織田信長の死とともに瓦解した。織田信長に会見した宣教師のルイス・フロイスは、「長身、痩軀でひげは少ない。声はかん高い。常に武技を好み、粗野である」などと、印象を書き記している。 |
|---|---|
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
織田信秀
(おだのぶひで)
| 生年月日 | 1510年 |
|---|---|
| 没年月日 | 1551年3月3日または1549年・1552年 |
| 幼名 | |
| 通称 | 三郎 |
| 別名 | |
| 官位 | 弾正忠 備後守 |
| 家系 | 織田弾正忠家 |
| 父 | 織田信定 |
| 母 | |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1510年 | 織田弾正忠家の織田信定の子として生まれる。尾張国清洲城主下四郡守護代の織田大和守家の一族。 |
|---|---|
| 年代不詳 | 織田大和守家の三奉行の一人。 |
| 1531年頃 | しだいに頭角を現して主家を圧倒した。 |
| 1538年頃 | 那古野城を奪った。 |
| 1540年 | 西三河の安祥城を攻略した。 |
| 1541年 | 伊勢外宮に銭700貫文を献上した。 |
| 1542年 | 小豆坂の戦で今川家を破って西三河を制圧した。 |
| 1543年 | 内裏築地修理料に4000貫文を献上した。 |
| 1547年 | 美濃国に出兵、稲葉山城下まで迫ったが、斎藤利政に敗れた。 |
| 1548年 秋 |
織田信秀と斎藤利政が講和を結び(濃尾同盟)、織田信長は斎藤利政の娘の帰蝶(濃姫)と結婚した。婚儀は古渡城で行われた。講和および織田信長と帰蝶の結婚にこぎつけたのは、織田信長の傅役の平手政秀だった。1549年とする説がある。 |
| 1548年 | 安祥城が奪回された。このとき織田信広と松平竹千代(徳川家康)の人質交換が行われた。 |
| 1551年 3月3日 |
末森城で病死。42歳。1549年・1552年とする説がある。 |
備考
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 |
|---|
