濃尾同盟
(のうびどうめい)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1548年秋~1556年 |
| 場所 | 尾張国 |
| 参加武将 | 斎藤利政 織田信秀 織田信長 平手政秀 |
| 結果 | 斎藤利政と織田信秀が講話を結び、同盟が成立。斎藤利政が死亡するまで続く。 |
背景
| 1544年 9月23日 |
尾張国の織田信秀と越前国の朝倉孝景が呼応して美濃国に侵入、稲葉山城に迫ったが、これを城下に引きつけた斎藤利政は、城から小勢で打ってでて、撃退した。織田勢は数百人が討ちとられ、敗走するところを追撃されて、2000~3000人が木曾川で溺死、「弾正忠(織田信秀)一人やうやう無事に帰宅」というありさまだった。朝倉教景率いる越前勢と織田信秀率いる尾張勢約2万5000は、先に美濃国を追われた土岐家を支援するいう名目で侵攻した。織田・朝倉勢は稲葉山城下の井ノ口を焼きはらったが、斎藤利政の前に完敗を喫した。 |
|---|---|
| 1547年 9月22日 |
織田信秀が稲葉山城下まで迫るが斎藤利政に大敗した。 |
| 1548年 3月 |
織田信秀が太原崇孚(雪斎)率いる今川家と小豆坂で戦い大敗した(第2次小豆坂合戦)。 |
| 1548年 | 尾張国内にも敵を抱えている織田信秀は、斎藤家と今川家を同時に敵とする不利を避けるために斎藤家と講和を結ぶことにした。斎藤利政も美濃三人衆が寝返るなど困難な状況下にあり、織田家との講和は望むところだった。 |
経緯
| 1548年 秋 |
織田信秀と斎藤利政が講和を結び、織田信秀の三男の織田信長は斎藤利政の娘の帰蝶(濃姫)と結婚した。婚儀は古渡城で行われた。講和および織田信長と帰蝶の結婚にこぎつけたのは、織田信長の傅役の平手政秀だった。1549年とする説がある。 |
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| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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聖徳寺の会見
(しょうとくじのかいけん)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1553年4月下旬 |
| 場所 | 尾張国冨田の聖徳寺 愛知県一宮市 |
| 参加武将 | 斎藤利政 織田信長 |
| 結果 | 斎藤利政が織田信長の実力を認め、同盟は確かなものになった。 |
背景
| 1548年 秋 |
斎藤利政と織田信秀が講和を結び、斎藤利政の娘の帰蝶と織田信秀の嫡男の織田信長が結婚した。 |
|---|---|
| 1553年頃 | 斎藤利政は織田信長が「うつけ者」であるとのうわさの真偽を確かめるため、会見を申し入れた。場所は濃尾国境付近の尾張国冨田にある聖徳寺。 |
経緯
| 1553年 4月下旬 |
先に到着した斎藤利政は、家臣700~800人を正装させて聖徳寺本堂の前にならばせ、自分は町はずれの小家に忍んで織田信長のようすを観察した。織田信長はうわさどおりのうつけた態度・服装だったが、その供衆は三間間中柄の槍500ばかり、弓・鉄砲500ばかりという堂々としたものだった。また、織田信長は聖徳寺につくと髪形や服装を正装に改め、会見にのぞんだ。斎藤利政はこの会見で織田信長の並々ならぬ力量を知り、帰路、家臣の猪子兵介にむかって「残念だが、自分の子どもたちは織田信長の家臣になるだろう」と語ったという。以後、斎藤利政と織田信長の同盟は確かなものになる。 |
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| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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桶狭間の戦い
(おけはざまのたたかい)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1560年5月12日~5月19日 |
| 場所 | 尾張国桶狭間山 |
| 交戦勢力 | 織田信長軍 |
| 今川義元軍 | |
| 総大将 | 織田信長 |
| 今川義元 | |
| 織田信長軍 参加武将 |
織田信長 |
| 今川義元軍 参加武将 |
今川義元 |
| 結果 | 今川義元が討死し、織田信長の勝利。 |
戦いの背景
| 年代不詳 | 今川義元の出陣は、上洛しようとして起こした行動とされている。当時の情勢から判断すると、即上洛を目的とした軍事行動とは考えがたい。その目的は明らかではないが、三河国支配の安定のために背後の織田信長をたたく、尾張国における今川家の前線基地である鳴海城を救援する、尾張国を獲得するためのいずれかが真相のようである。 |
|---|
戦いの経緯
| 1560年 5月12日 |
今川義元の本隊は駿府城を出発した。今川義元は掛川、引馬、吉田、岡崎、知立と兵を進めた。 |
|---|---|
| 1560年 5月18日 |
今川義元は沓掛城に本陣を構え、織田方との戦いがはじまった。今川方は丸根砦・鷲津砦を陥落させた。一方、清須城の織田信長は、軍議らしい軍議も開かずにいたが、この日未明、今川方の攻撃開始の報をうけた織田信長は謡曲「敦盛」を舞ったのち、急ぎ支度をし、立ったまま食事をとって出陣した。 |
| 1560年 5月19日 午前8時前 |
織田信長はわずか5騎の小姓をしたがえて居城の清須城を出陣し、善照寺砦に入って体制を整え、その後、中島砦に陣を移した。中島砦は、2万5000の兵を擁する駿河国の今川義元が陣を張る桶狭間山の正面のもっとも低い所にあった。 |
| 1560年 5月19日 午後2時頃 |
織田方2000は山のふもとから今川義元の本隊めがけて正面から攻めかかった。にわかに大風雨が起こった。楠の大木を倒すほどの大風は、織田方の背後から今川方にむかって吹き、今川方の前進をはばんだ。通り雨がすぎ、晴れるのをみた織田方は、一気に今川方に襲いかかった。今川方は混乱し、ついに今川義元は討ちとられた。大将を失った今川方は総崩れとなり、駿河国へ敗走した。 |
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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清須同盟
(きよすどうめい)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1562年1月15日~1584年 |
| 場所 | 尾張国の清須城 |
| 参加武将 | 織田信長 徳川家康(松平元康) |
| 結果 | 織田信長は西側に勢力を拡大、徳川家康は東側に勢力を拡大した。 |
背景
| 1560年 5月19日 |
今川義元が桶狭間で織田信長に敗れて討ち死にすると、今川家の人質だった徳川家康は駿府には戻らず、12年ぶりに居城の岡崎城に入った。 |
|---|---|
| 1561年頃 | 徳川家康の母の於大の方の兄である刈谷城主の水野信元は、今川家と断交して織田家と結ぶよう徳川家康に進言し、斡旋の意思を示した。徳川家康は対等同盟とすることを条件にこれを受け入れた。 |
経緯
| 1562年 1月15日 |
岡崎城主の徳川家康(松平元康)が、織田信長の清須城を訪ね、両者の盟約関係(清須同盟)が成立した。織田信長は徳川家康に対して、「元康は東へいけ。おれは西へいく」といったという。 |
|---|---|
| 1563年 3月2日 |
徳川家康の嫡男の徳川信康と織田信長の娘の徳姫(五徳)の婚約が調った。2人ともまだ5歳だった。 |
| 1567年5月27日 | 徳川信康と徳姫は9歳で結婚した。 |
| 1568年 | 徳川家康は公然と今川領の遠江国に駒を進め、今川領国の奪取をはかる。 |
| 1570年 | 姉川の戦いで織田・徳川連合軍が勝利する。 |
| 1575年 | 長篠の戦いで織田・徳川連合軍が勝利する。 |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦いで織田信雄に徳川家康が援軍を送り、羽柴秀吉と戦った。 |
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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尾張の鋳物師を保護
(おわりのいもじをほご)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1562年2月~江戸時代 |
| 場所 | 尾張国 |
| 参加武将 | 織田信長 |
| 結果 | 鋳物師の水野太郎左衛門が専売権を得た。 |
背景
| 1562年 2月以前 |
尾張国の鋳物は畿内から出職の鋳物師によってまかなわれていた。出職の鋳物師は注文に応じて梵鐘などをつくり、かたわら鍋・釜を売り歩いていた。尾張国に鋳物師が定着したのは1500年代半ば頃で、春日井郡上野村の水野太郎左衛門はそのひとりだった。 |
|---|
経緯
| 1562年 2月 |
織田信長は、鋳物師の水野太郎左衛門(範直)に領国内の寺社で使用する梵鐘・塔の九輪・鰐口の製造を独占することを許し、あわせて鍋・釜などの専売権を認めた。 |
|---|---|
| 年代不詳 | 織田信長は熱田の鋳物業を廃止させて、水野太郎左衛門を保護した。このように戦国大名が有力な鋳物師を保護するのは新兵器である鉄砲の生産者を確保するためで、武器・防具の生産者を保護する例は少なくなかった。 |
| 1571年 6月 |
織田信長は水野太郎左衛門の鋳物師大工職を再度確認し、水野太郎左衛門は織田家の御用鋳物師となった。 |
| 江戸時代 | 尾張藩の御用鋳物師をつとめる |
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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織田信長の流通政策
おだのぶながのりゅうつうせいさく
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1572年 12月2日 |
| 場所 | 尾張国・美濃国 |
| 参加武将 | 織田信長 伊藤惣十郎 |
| 結果 | 織田信長が流通を支配し、利潤集中をはかった。 |
背景
| 1567年 10月 |
織田信長は、戦災からの復興を援助すべく、城下井ノ口(岐阜)に隣接する加納に制札を下した。制札の宛名は「楽市場」となっており、真宗寺院円徳寺の寺内町に以前からあった楽市場にあてたものだった。内容は3ヵ条から成り、第1条では、来往者に種々の税を免除し、両国内の自由な往来とその身分を保証、第2条では、押買・狼藉・喧嘩・口論を禁止、第3条では、理不尽な警察権の行使や場所取りを禁止した。 |
|---|---|
| 1568年 9月 |
織田信長は、ふたたび加納にほぼ同内容の制札を下したが、その宛名は「加納」となっており、第2条で「楽市楽座の上、諸商売すべき事」と明記した。この加納に対してだされた楽市令は、戦乱で荒廃した楽市の機能を保証し、その復興をめざすものであるが、そのような楽市場の存在を前提として、戦国大名や織豊政権は、新城下町や新市場の楽市化を定めた楽市令をだすようになる。本来、権力から自由だったはずの加納の楽市場は、制札によって、織田信長の統制下におかれることになる。 |
| 1572年 9月 |
織田信長は近江国金森に楽市令をだした。楽市令は座の制約を廃止して新興商人を誘致し、自由商売とする画期的な政策だった。 |
経緯
| 1572年 12月2日 |
織田信長は清須の商人の伊藤惣十郎を尾張国・美濃国の商人司にあらためて任命し、両国における輸入・国産呉服の商売統制を命じた。他国の商人でも尾張国・美濃国で商売する際には、かならず伊藤惣十郎に届けでることになった。伊藤惣十郎は商人司として、同業者組合である夷子講を取り扱った。両国での呉服商売は、伊藤惣十郎を通じて統制された。一見矛盾するようにみえる楽市令と商人司の流通政策は、織田信長が流通を支配し、利潤集中をはかることで深く結びついていた。伊藤惣十郎の地位は、尾張国を領する織田信忠・羽柴秀次・尾張徳川家の各代にも継承され、のちの伊藤松坂屋に発展していく。l |
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備考
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
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