金ケ崎の退き口
(かねがさきののきくち)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1570年4月28日~5月21日 |
| 場所 | 越前国金ケ崎城 |
| 交戦勢力 | 織田・徳川連合軍 |
| 朝倉・浅井連合軍 | |
| 総大将 | 織田信長 |
| 朝倉義景 | |
| 織田・徳川連合軍 参加武将 |
織田信長 徳川家康 羽柴秀吉 |
| 朝倉・浅井連合軍 参加武将 |
朝倉義景 浅井長政 |
| 結果 | 織田信長は浅井長政の離反による挟撃を回避し岐阜城に帰った。 |
戦いの背景
| 1570年 1月23日 |
織田信長は畿内・北陸・中国の諸大名に2月中旬までに上洛するよう命じた。 |
|---|---|
| 1570年 2月中旬頃 |
朝倉義景は織田信長の出した上洛命令を拒んだ。織田信長は「朝倉討伐」の大義名分を得た。 |
| 1570年 4月20日 |
織田信長は徳川家康・羽柴秀吉を従え、越前国の朝倉義景を討つため3万余の軍勢を率いて京都を出発した。 |
| 1570年 4月26日 |
織田信長は天筒山城・金ヶ崎城などを陥落させ、木ノ芽峠越えに一挙に越前国に乱入する勢いだった。予期せぬ異変が起こった。妹婿の浅井長政の挙兵である。織田信長は耳を疑ったが、すぐに撤退を決意した。南北から挟撃ちされる危険性があるからだった。 |
戦いの経緯
| 1570年 4月28日 |
織田信長は殿軍として羽柴秀吉を金ヶ崎城にとどめ、供の者数騎をつれ、京都を目指して脱出した。 |
|---|---|
| 1570年 5月21日 |
織田信長は若狭国から朽木谷をぬけて京都に戻り、岐阜城に帰った。 |
備考
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
|---|
