一万人の戦国武将

15代将軍に就任
(じゅうごだいしょうぐんにしゅうにん)

別名
年月日 1568年7月27日~10月18日
場所 山城国京都
京都府京都市
交戦勢力 足利義昭擁立派
足利義栄擁立派
総大将 足利義昭
足利義栄
足利義昭擁立派
参加武将
足利義昭
織田信長
徳川家康
明智光秀
細川藤孝
和田惟政
浅井長政
松永久秀
今井宗久
足利義栄擁立派
参加武将
足利義栄
三好長逸
三好政康
岩成友通
篠原長房
六角義賢
六角義治
結果 織田信長が大軍を率いて上洛し足利義昭を室町幕府15代将軍に就任させた

背景

1565年 13代将軍の足利義輝が三好三人衆らに暗殺され、足利義昭は近江国に逃れた。
1566年 足利義昭は越前国の朝倉義景の元に身を寄せていた。
1567年頃 足利義昭は上洛の機会をうかがっていた。
1568年
2月頃
三好三人衆らによって足利義栄が14代将軍に就任した。
1568年
6月頃
足利義昭と織田信長の間を仲介したのは、足利義昭の侍臣となっていた明智光秀・細川藤孝の二人と見られる。明智光秀はこれより先、美濃国の織田信長に仕え、足利義昭の入洛の援助を要請した。
1568年
7月
足利義昭から要請を受けた織田信長は、和田惟政らを越前国一乗谷に派遣した。
1568年
7月12日
足利義昭は美濃国岐阜の織田信長を頼るむねを上杉輝虎に御内書で伝えた。
1568年
7月13日
足利義昭は一乗谷を出発した。
1568年
7月16日
織田信長の妹婿の浅井長政の近江国小谷城に立ち寄り、その後出迎えの明智光秀と合流した。
1568年
7月22日
足利義昭は美濃国西荘の立政寺に到着した。25日ともいわれている。

経緯

1568年
7月27日
織田信長は立政寺で足利義昭とはじめて会見し、銭1000貫・太刀・鎧・馬などを進上して足利義昭を歓待した。
1568年
8月2日
織田信長は近江国甲賀郡の土豪に足利義昭上洛への協力を要請した。
1568年
8月7日
織田信長は近江国の佐和山城に赴き、京都所司代職につける条件で六角義賢の協力を要請した。
1568年
8月14日
織田信長の7日間におよぶ説得にも六角義賢は応じず、織田信長はいよいよ大軍を率いての上洛を決意する。
1568年
9月7日
織田信長は美濃国・尾張国・北伊勢の兵に徳川家康の援兵を加え、6万(4万とも)の大軍を率いて岐阜を出発した。
1568年
9月12日夜
織田信長は六角家の支城の箕作城をおとした。
1568年
9月13日
織田信長は六角義賢・六角義治父子の居城の観音寺城をおとして、甲賀山中へと敗走させた。
1568年
9月22日
織田信長は近江国を制圧し、美濃国岐阜に残っていた足利義昭を迎え、桑実寺で合流した。
1568年
9月26日
織田信長は足利義昭を奉じて入京した。織田信長は東寺に陣をとり、足利義昭は清水寺に入った。織田軍の入京のうわさで、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した織田信長は、細川藤孝に御所の警備を命じる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸・三好政康・岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された14代将軍の足利義栄が摂津富田城に、三好三人衆がそれぞれ山城国勝竜寺城・摂津国芥川城・越水城に拠って織田信長に抵抗していた。
1568年
9月29日
織田信長は勝竜寺城を攻略した。摂津富田城・芥川城・越水城も数日のうちに攻略し、三好党は阿波国へ敗走した。
1568年
10月18日
織田信長の奏請によって朝廷は足利義昭を征夷大将軍に任命し、同時に参議・左近衛権中将に任じ、従四位下に叙した。三好三人衆らに擁立された14代将軍の足利義栄は、将軍在職わずか7ヶ月で前月摂津富田で没しており、足利義昭は晴れて悲願の室町幕府15代将軍となった。
1568年末 足利義昭は将軍として畿内諸国の守護職を任命した。摂津国守護に和田惟政・池田親正・伊丹忠親を、河内国守護に三好義継・畠山高政をそれぞれ任じた。山城国には細川藤孝を入れ、大和国は松永久秀の支配にまかせた。

備考

参考文献 クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行

朝廷財政を再建(ちょうていざいせいをさいけん)

別名
年月日 1571年9月30日~1575年頃
場所 山城国京
参加武将 織田信長
明智光秀
嶋田秀満
塙直政
松田秀雄
結果 この政策により窮乏をきわめた朝廷財政は好転した。

背景

1571年以前 朝廷の財政は窮乏していた。

経緯

1571年
9月30日
織田信長は畿内の各寺社などに反あたり1升ずつの段米を賦課し、妙顕寺に収めさせた。
1571年
10月15日
織田信長は上京・下京の各町に米を年利3割で貸し付け、その利息を朝廷の財政収入とした。明智光秀・嶋田秀満・塙直政・松田秀雄に命じて米520石を上京84町・下京45町(このうち半町(道路をはさんで向かい合う2つが街区を越えて1つの町を形成)らを差し引くと上京61町・下京43町)に1町あたり5石を貸し付けた。
1572年
1月
各町は利息として毎月1斗2升5合ずつの米を収めることになり、これで朝廷の収入は毎月13石、1年で156石となる。これは、室町時代の朝廷供御米の高にほぼ一致するものだった。これによって窮乏をきわめた朝廷財政は好転する。
1575年
又は
1576年
この制度はうちきられたらしい。本格的な財政再建は1575年11月の公家・寺社領の新地宛行まで待たねばならない。

備考

参考文献 クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行