織田弾正忠家
(おだだんじょうのじょうけ)
織田家の家譜などによると、平重盛の子の平資盛の子の織田親実が近江国津田郷にすみ、のち越前国織田荘の織田剣明神社の神官に養われ、織田を称したという。平氏を称するのは、織田信長が足利義昭と対立しはじめた1571年頃からで、織田信長は1549年の制札に「藤原信長」と署名している。もとは忌部氏ではなかったかとの説もある。平氏を称したのは、源平交代思想の影響から、源氏の足利将軍家に代わって政権を目指したからであろうと考えられる。その時期は不明だが、越前国織田荘の荘官で、織田剣明神社の祠官を兼ねる織田家は越前国守護の斯波家に仕え、1400年に斯波義重が尾張国守護を兼帯したとき、織田伊勢入道常松(または織田常昌)を守護代に任命した。これが織田家が尾張国に移住したはじめで、織田常松は兄弟の織田常竹を又守護代とした。応仁の乱の誘因となった斯波家の内訌から、織田家は岩倉城を本拠とする織田伊勢守家と清須城を本拠とする織田大和守家に分かれて争うようになった。織田伊勢守家は尾張国の上4郡を、織田大和守家は下4郡を支配した。この織田大和守家の織田敏定から、織田信定につながるという系図が多いが、織田信定の父は織田良信でほぼ間違いないだろう。織田大和守家の重臣で清須三奉行のひとりの織田信秀は居城としていた勝幡城が尾張国きっての商品流通の拠点として栄える港町津島を擁していたため経済力をたくわえ、しだいに台頭した。主家をもしのぐほどに勢力を伸ばし、三河国や美濃国へ進出。多くの子弟もそれぞれ一城を構えた。織田信長は兄弟をはじめ、一族とも抗争しながら尾張国を統一し、織田家の本流と目されるようになった。1560年に桶狭間で今川義元を討って武名を高め、さらに天下布武を目指した。1582年に本能寺の変で横死、嫡男の織田信忠も同時に討死した。織田信長のあとは羽柴秀吉の推挙で織田信忠の子の織田秀信が家督を継ぐが、1600年に関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、織田弾正忠家の嫡流は断絶した。織田信長の弟の織田長益の子孫が大和国芝村、柳本藩主として、また次男の織田信雄の子孫が出羽国天童藩主、丹波国柏原藩主として家名を伝え、明治維新を迎えた。
家系図
備考
| 参考文献 | 寛政重修諸家譜 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 歴史群像シリーズ27 風雲信長記(学研)1992年発行 クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 武将系譜辞典 織田家人名録 城屋敷神明社 津田豊後守について |
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長益流織田家
(ながますりゅうおだけ)
織田弾正忠家の分家で織田信秀の十一男(織田信長の弟)の織田長益から始まる。織田長政が大和国芝村藩主、織田尚長が柳本藩主として家名を伝え、明治維新を迎えた。
家系図
備考
| 参考文献 | 寛政重修諸家譜 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 歴史群像シリーズ27 風雲信長記(学研)1992年発行 |
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信包流織田家
(のぶかねりゅうおだけ)
織田弾正忠家の分家で織田信秀の六男(織田信長の弟)の織田信包から始まる。
家系図
備考
| 参考文献 | 寛政重修諸家譜 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行 歴史群像シリーズ27 風雲信長記(学研)1992年発行 |
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