石山合戦(いしやまかっせん)
| 別名 | |
|---|---|
| 年月日 | 1570年9月12日~ |
| 主戦場 | 石山本願寺 |
| 交戦勢力 | 織田家 |
| 本願寺 | |
| 総大将 | 織田信長 |
| 顕如 | |
| 織田軍 参加武将 |
織田信長 足利義昭 織田信治 森可成 織田信興 |
| 本願寺軍 参加武将 |
顕如 浅井長政 朝倉義景 |
| 結果 |
戦いの背景
| 1570年 9月4日 |
織田信長と足利義昭は、野田・福島に陣取った三好三人衆を攻めるため、摂津国中島に陣を張った。この際、織田信長は本願寺へ軍事費を要求したが、本願寺はこれを拒否した。織田信長の無理な要請が蜂起の直接の原因だった。顕如は紀州門徒に上洛を求めていたが、さらに諸国の門徒たちにも一揆を起こせとの檄を飛ばした。 |
|---|---|
| 1570年 9月6日 |
本願寺は近江門徒に激を送り、同時に浅井・朝倉にも出馬を求めた。 |
戦いの経緯
| 1570年 9月12日 夜半 |
石山本願寺の寺内でにわかに門徒が蜂起した。早鐘がつかれる緊迫した空気のなか、織田信長の陣所にむけて鉄砲がうちこまれた。寺内には紀州雑賀門徒の鉄砲衆がいた。織田信長勢のなかにも多くの鉄砲を所持する根来寺衆などが参戦していたため、戦闘は激しい鉄砲のうちあいになった。 |
|---|---|
| 1570年 9月18日 |
織田信長と足利義昭は朝廷を通じて和睦をはかるが失敗した。 |
| 1570年 9月20日 |
近江国で浅井・朝倉勢と北郡などの一向一揆衆3万人は宇佐山城を攻めたため、織田信長は野田・福島の陣を撤退し、足利義昭とともに帰洛した。宇佐山城の織田信治と森可成は討死した。 |
| 1570年 9月24日 |
織田信長は近江国坂本に出陣した。浅井・朝倉連合軍は比叡山にこもり、織田信長が決戦を迫るが膠着状態が続いた。 |
| 1570年 10月7日 |
濃尾地域の本願寺教団の中核的存在の長島願証寺を中心とした長島の一揆が顕如の激に応じて、近江一揆と呼応して蜂起した。長島の一揆には斎藤龍興らの浪人や美濃国・尾張国の武士も加わっていた。 |
| 1570年 10月30日 |
織田信長と足利義昭は青蓮院門跡を介して本願寺と和睦をはかった。 |
| 1570年 11月13日 |
織田信長と本願寺の和睦が成立した。 |
| 1570年 11月21日 |
尾張国小木江城に拠っていた織田信長の弟の織田信興が、伊勢長島の一向一揆に城内まで攻め込まれ、天守で自害した。 |
| 1570年 12月13日 |
織田信長は天皇・足利義昭の調停により比叡山にたてこもる浅井長政・朝倉義景と和睦し、兵をおさめた。両者の誓紙交換が行われ、朝倉方から家臣の青木・魚住の子が、織田方から氏家(あるいは稲葉)・柴田の子が、それぞれ人質として交換され、和議の条件が整えられた。 |
| 1571年 1月2日 |
織田信長は本願寺と浅井家・朝倉家の分断をはかり、江北の姉川と朝妻間の商人の通行を禁止した。和平は一時的なもので、停戦も有名無実化したことを露呈するものだった。 |
| 1572年 7月 |
江南の一向一揆の拠点の金森城・三宅城が佐久間信盛に落とされる。 |
備考
| 参考文献 | クロニック 戦国全史(講談社)1995年発行 |
|---|
備考
| 参考文献 | コトバンク 2023年9月9日閲覧 2023年10月23日閲覧 |
|---|
