一万人の戦国武将

菖蒲金田家(しょうぶかねだけ)

菖蒲金田家は、佐々木(六角または隠岐)家の流れを汲む(仮冒とも)とされる金田則綱から始まり、菖蒲佐々木家とも呼ばれる。1395年、武蔵国入間郡浅羽郷金田村に鎌倉府奉公衆の佐々木家の末裔が住んで金田と称したと思われる。1419年、金田家の2代目の金田友綱は鎌倉府の御料所支配の一環として武蔵国太田荘須賀郷へ移り、さらに武蔵国除堀村波寄に住んだ。1455年12月6日、武蔵須賀合戦において古河公方の足利成氏の家臣として騎西城の城主の小田正達を討ち取り、その後城主となる。1456年5月5日、初代(金田家としては3代目)の金田則綱は古河公方の足利成氏の命で菖蒲城を築城し、上杉方に対する古河公方方の最前線の任を担うようになった。1492年~1501年(明応の頃)、2代目の金田氏綱は家臣数名を率いて除堀村波寄の無人の原野を開拓し原村の基を築いた。1502年、天台宗であった興善寺を季雲禅師が開山に、金田氏綱が中興開基となり、曹洞宗に改宗した。4代目の金田定綱は古河公方の足利高基に仕え、重要な地位にあった。1525年、足利高基と山内上杉家は対立中であり、菖蒲城は上杉憲寛(足利晴直)に攻撃された。金田定綱は、渋江三郎に救援を求め、渋江三郎は北条氏綱へ援軍派遣要請をしたため、弓隊200人が菖蒲城の救援に向かった。足利高基は伊勢氏流北条家との協調路線にあり、金田定綱も少なからぬ影響を受けていた。1537年、反伊勢氏流北条家の立場をとっていた足利高基の弟の足利義明・足利基頼らは安房国の大名の里見家に擁立されて下総国小弓に移り小弓御所と称されるようになった。金田定綱は常陸国の鹿島家らとともに足利義明に従った。次第に強まる古河公方家に対する伊勢氏流北条家の圧迫に危機感をつのらせ、足利高基と袂を分かった。1538年10月、第一次国府台合戦で足利義明・里見義堯らの連合軍と北条氏綱・北条氏康の父子の軍勢が激突した。この戦いに金田定綱は足利義明に従ったが、足利義明・足利基頼の兄弟は討死し、伊勢氏流北条家の勝利で終わった。敗戦とともに菖蒲城に逃げ帰り、足利高基のもとに帰参した。家督を長男の金田頼綱に譲り一線から身を引いた。かつてのような重要な役割がまわってくることはなく、古河公方家中における政治的地位を後退させた。1552年、5代目の金田頼綱は足利義氏が北条氏康に擁立されて古河公方となると、一貫して足利義氏に従った。1560年、関東に出陣してきた上杉輝虎が古河公方に足利藤氏を担ぎ出したが、金田頼綱は足利藤氏・上杉輝虎に属すことはなかった。1564年、伊勢氏流北条家の麾下として武蔵国笠羽田に500貫の地を拝領した。足利義氏を通じて伊勢氏流北条家の家臣に準じるような立場に置かれていった。その結果、菖蒲城は上杉輝虎の攻撃にさらされることになった。1574年、上杉輝虎が第三次関宿合戦に際して伊勢氏流北条家方の武蔵国の諸城に攻撃を加えたとき、6代目の金田秀綱は菖蒲城を騎西城・岩槻城などとともに徹底的に放火された。1578年1月、金田秀綱は足利義氏に恒例の年頭の挨拶に行った。伊勢氏流北条家との関係を深めながらも、古河公方の家臣としての立場を守り、足利義氏との関係を維持していた。1583年、足利義氏が死亡したことで古河公方家は実質的に断絶し、伊勢氏流北条家の家臣に位置づけられる事になった。1590年、小田原征伐で成田氏長に属して戦ったが敗北し、伊勢氏流北条家とともに没落することとなった。浪人の後、武蔵国埼玉郡菖蒲郷大崎村に田宅を得る。7代目の金田治部は大崎村から菖蒲郷柴山村に移住した。柴山村に住んでいた都野将監と田宅を移り替えしたとされる。1612年頃、下総国小見川藩主の安藤重信に仕える。1615年、安藤重信とともに大坂の陣に従行した。金田覚右衛門は安藤家の家老役として300石の知行を賜り、金田盛綱は松平信綱に仕え、金田宗三は伊奈忠治に仕えるなど、子孫は江戸幕府の藩主などに仕えた。

家系図

菖蒲金田家