不詳 |
菖蒲金田家の三代目で古河公方足利家の家臣の金田顕綱の長男として生まれる。 |
不詳 |
菖蒲金田家の4代目当主と菖蒲城主となる。古河公方足利家の足利高基に仕え、重要な地位にあった。 |
1525年 |
足利高基と山内上杉家は対立中であり、菖蒲城は上杉憲寛(足利晴直)に攻撃された。金田定綱は、渋江三郎に救援を求め、渋江三郎は北条氏綱へ援軍派遣要請をしたため、弓隊200人が菖蒲城の救援に向かった。足利高基は伊勢氏流北条家との協調路線にあり、金田定綱も少なからぬ影響を受けていた。 |
1537年 |
反伊勢氏流北条家の立場をとっていた足利高基の弟の足利義明・足利基頼らは安房国の大名の里見家に擁立されて下総国小弓に移り小弓御所と称されるようになった。金田定綱は常陸国の鹿島家らとともに足利義明に従った。次第に強まる古河公方家に対する伊勢氏流北条家の圧迫に危機感をつのらせ、足利高基と袂を分かった。 |
1538年 10月 |
第一次国府台合戦で足利義明・里見義堯らの連合軍と北条氏綱・北条氏康の父子の軍勢が激突した。この戦いに金田定綱は足利義明に従ったが、足利義明・足利基頼の兄弟は討死し、伊勢氏流北条家の勝利で終わった。敗戦とともに菖蒲城に逃げ帰り、足利高基のもとに帰参した。家督を長男の金田頼綱に譲り一線から身を引いた。かつてのような重要な役割がまわってくることはなく、古河公方家中における政治的地位を後退させた。 |