一万人の戦国武将

金田秀綱(かねだひでつな)

生年月日
没年月日 1606年2月11日
幼名
通称 源四郎
別名
官位
家系 菖蒲金田家
金田頼綱
正室
側室

年表

不詳 菖蒲金田家の5代目で古河公方足利家の家臣の金田頼綱の長男として生まれる。
1564年
以後
父の金田頼綱から家督を相続した。菖蒲城主。
1574年 上杉輝虎が第三次関宿合戦に際して伊勢氏流北条家方の武蔵国の諸城に攻撃を加えたとき、金田秀綱は菖蒲城を騎西城・岩槻城などとともに徹底的に放火された。
1578年
1月
金田秀綱は足利義氏に恒例の年頭の挨拶に行った。伊勢氏流北条家との関係を深めながらも、古河公方の家臣としての立場を守り、足利義氏との関係を維持していた。
1583年 足利義氏が死亡したことで古河公方家は実質的に断絶し、伊勢氏流北条家の家臣に位置づけられる事になった。
1590年 小田原征伐で成田氏長に属して戦ったが敗北し、伊勢氏流北条家とともに没落することとなった。
1606年
2月11日
武蔵国埼玉郡菖蒲大崎村で死亡。