一万人の戦国武将

足利義視(あしかがよしみ)

生年月日 1439年閏1月18日
没年月日 1491年1月7日
幼名
通称 今出川殿
別名 足利義躬
義尋(法名)
道存(法名)
官位 従五位下 左馬頭
従四位下 参議
従三位 権大納言
従二位
正二位
准三宮
贈従一位 太政大臣
家系 足利将軍家
足利義教
養父 足利義政
小宰相局
正室 日野重政の娘(日野良子・妙音院)
側室

年表

1439年
閏1月18日
室町幕府6代目将軍の足利義教と側室の小宰相局(正室の正親町三条尹子に仕えていた女房)の十男として生まれる。
1439年
2月22日
足利義政の正室の正親町三条尹子の兄である正親町三条実雅の養君となった。
1443年 出家して、天台宗浄土寺の門跡となり、義尋と号した。
1464年
11月25日
実子がなかった兄の足利義政に請われて僧侶から還俗することとなった。当時足利義視のほかに足利義政の兄弟で生存していたのは、足利義政の兄に当たり、古河公方に対抗させるために還俗していた足利政知のみであった。
1464年
12月2日
正式に還俗して、乳人の正親町三条実雅の今出川の屋敷に移り住んだため今出川殿と呼ばれた。従五位下、左馬頭に叙任された上で足利義視を名乗った。
1465年
1月5日
従四位下に昇叙。左馬頭に留任。
1465年
2月25日
判始を行った。
1465年
3月3日
室町幕府行事の節句進上において、足利義視は足利義政とその御台所の日野富子と同じ扱いを受けた。
1465年
3月15日
日野重子の旧邸「高倉殿」を「今出川殿」とあらためて移り住んだ。
1465年
7月26日
日野富子の同母妹の日野良子を正室に迎えたが、これは足利義政と日野富子のすすめによるものであった。
1465年
11月20日
元服した。
1465年
11月23日
足利義政と日野富子の間に甥の足利義尚が誕生し、将軍世嗣とされたが、特に足利義視の立場に変化はなかった。当時は子供の生存率も低く、世代に差があるため足利義視は中継ぎとして見られていた。
1465年
11月25日
参議を補任、左近衛中将を兼任され、順調に足利義政の後継者として出世していった。
1465年
12月27日
従三位に昇叙。権大納言に転任。
1466年
1月6日
従二位に昇叙。権大納言に留任。またこの頃京都では徳政一揆が度々起こっているが、足利義視は足利義政と別個に大名への軍事命令を出している。従う大名は殆どなかったが、斯波家の前当主の斯波義廉の家臣の朝倉孝景はこれに応じた。
1466年
8月25日
足利義政は斯波義敏を越前国・遠江国・尾張国守護に任じ、斯波義廉を討伐するよう諸大名に命令した。しかし山名持豊・畠山義就らはこれに反対し、斯波義敏を支援する伊勢貞親らと対立していた。
1466年
9月5日
伊勢貞親は足利義視が反逆をもくろんでいると訴え、足利義政に誅殺を求めた。足利義視も斯波義廉に近く、足利義政の乳父であり、「御父」と呼ばれていた伊勢貞親の動きはこれに対抗するためのものだった。足利義視は山名持豊の屋敷に逃れ、ついで元管領の細川勝元に無実を訴えた。
1466年
9月6日
伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、伊勢貞親と斯波義敏、季瓊真蘂、赤松政則ら伊勢貞親・斯波義敏派が失脚した(文正の政変)。足利義視は季瓊真蘂とは以前から交流があり、季瓊真蘂が失脚した後も親しく交際している。
1466年
11月26日
文正の政変後も足利義視の扱いに変化はなく、大嘗会では、足利義政に代わって後奈良天皇に供奉する役を務めた。
1467年
1月11日
正二位に昇叙。権大納言に留任。
1467年
1月18日
畠山家の家督争いが発端となり、「御霊合戦」が発生した。足利義視は足利義政とともに畠山義就を支援するようになり、畠山政長を支援する細川勝元の面目を失わせた。
1467年
2月24日
足利義視は畠山家両軍に和睦を呼びかけているが失敗に終わった。
1467年
5月
足利義政が失脚していた伊勢貞親を伊勢国から京都に呼び戻したため孤立した。
1467年
5月26日
細川勝元らの東軍と、山名持豊らの西軍の戦闘が発生した(応仁の乱)。足利義政は畠山義就に軍の撤退を求めているが、「今出川(足利義視)も同意見である」と記している。
1467年
6月
足利義視は足利義政・日野富子・足利義尚らとともに東軍に属し、牙旗を下され主将となった。足利義視は東軍から山名家の縁者を追放し、山名方に通じたとして奉行衆の飯尾為数を誅殺した。
1467年
8月22日
西軍の大内政弘が上洛したが、その日の夜に入れ替わるように京都から出奔した。一時的に今出川殿に赴いていた足利義視が帰陣しようとしたが、京極持清の家臣の多賀高忠に阻まれた。東軍内で西軍方と見られたものが細川勝元によって粛清された。
1467年
8月23日
足利義視は北畠教具を頼って伊勢国へ下向した。
1468年 西軍と古河公方の足利成氏との間で攻守同盟が結ばれているが、伊勢国にいた足利義視はこれを承認した。
1468年
9月頃
この頃から足利義政が伊勢貞親を起用したことで対立した。
1468年
9月22日
足利義政の説得で伊勢国から帰洛するが、義兄にあたる日野勝光を激しく非難した。
1468年
11月13日
花の御所を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名持豊の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて「公方様」「相公(将軍)」と呼ばれた。足利義政は激怒し、朝廷に働きかけ足利義視や側近の官位を褫奪させた上で、朝敵として追討の対象とさせた。
1468年
12月5日
足利義政により官位を解官。
1469年 足利義政は足利義視討伐のため、四国・九州の諸大名に軍を率いて上京するよう命じている。
1473年
4月23日
伊勢貞親と山名持豊が死亡した後、一条兼良に進退を相談する書状を送った。
1476年
9月14日
足利義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると大内政弘と共に交渉を開始した。
1476年
12月20日
足利義政に他意のないことを伝える書状を送った。
1477年
5月3日
日野富子へ大内政弘を通して和睦の仲介料を支払った。
1477年
7月
娘を日野富子のもとに送り、猶子としてもらった。
1477年
11月11日
足利義政との溝を埋めることは難しく、西軍は解体されたが、子の足利義稙を伴って美濃国の土岐成頼のもとに亡命した。美濃国では承隆寺に滞在した。
1478年
7月10日
足利義政に赦免されたが、美濃国に留まり続けた。
1487年
1月
子の足利義視を元服させた。
1487年
8月
義材は従五位下・左馬頭に叙位任官されているが、これは足利義尚に子がなかったことを憂いた日野富子の意向が強かった。この頃には足利義稙を足利義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に在陣していた足利義尚を京都に帰らせて、代わりに足利義稙を近江国に置くという案もあったが、実行はされなかった。
1489年
4月13日
足利義尚が死亡すると、足利義視は足利義稙とともに上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入った。
1489年
4月19日
日野富子の住む小川殿(足利義政の別荘)にうつり、日野富子の支持を受けていることを明らかにした。
1489年
4月27日
通玄寺で出家をして道存と号した。
1489年
10月22日
足利義視・足利義稙の父子は応仁の乱以来となる足利義政との対面を果たした。
1490年
1月7日
足利義政が病死した。没後の法事の席で足利義視は「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった」と語っている。この席では、美濃国にいた足利義視が、ある僧を出世させるよう要望した所、関係した僧侶たちに反対された。しかし足利義政が「足利義視の言うことだから」と押し切ったという話も語られている。これを聞いた足利義視はうなずき、一笑したという。
1490年
4月27日
日野富子が小川殿を足利義稙の従兄弟にあたる香厳院清晃(後の足利義澄)に与えることとなった。さらに日野富子が細川政元と内談して、清晃を擁立しようとしているというわさがたった。
1490年
5月18日
足利義視は小川殿を破却させ、日野富子の所領も奪った。
1490年
7月5日
足利義稙は室町幕府10代目将軍となり、足利義視は将軍の父(大御所)として政務をとった。准后の待遇も受けるようになった。
1490年
10月7日
妻の日野良子を失った。
1490年
11月
足利義視は腫物を患った。
1491年
1月7日
通玄寺で死亡。53歳。
1491年
2月24日
贈従一位、太政大臣。
映像 NHK大河ドラマ「花の乱」(演者・佐野史郎)