一万人の戦国武将

平手政秀
(ひらてまさひで)

生年月日 1492年
没年月日 1553年閏正月13日
幼名
通称 五郎左衛門
別名 清秀
官位 監物
中務丞
家系
父 平手経秀
母
正室
側室

年表

1492年 平手経秀の子として生まれる。
年代不詳 織田信秀の家臣。
1533年 公家の飛鳥井雅綱・山科言継一行の勝幡城滞在中の接待に当たる。
1542年 織田信秀が子の織田信長に那古野城を与えたとき、平手政秀と林秀貞は織田信長の家老となり、とくにその教育にあたった。
1543年 織田信秀の命により上洛し、内裏築地修理料銭4000貫を献じた。また、石山本願寺に赴いた。
1548年
秋
織田信秀と斎藤利政が講和を結び(濃尾同盟)、織田信長は斎藤利政の娘の帰蝶(濃姫)と結婚した。婚儀は古渡城で行われた。講和および織田信長と帰蝶の結婚にこぎつけたのは、織田信長の傅役の平手政秀だった。1549年とする説がある。
1551年 織田信秀の死後、織田信長の素行を憂えてたびたび諌めたが、容れなかった。
1553年
閏正月13日
平手政秀は所領の尾張国春日井郡志賀村の屋敷に退き、僧の沢彦に後事を託して自害した。62歳。平手政秀が自害したのは、いっこうに行状を改めようとしない織田信長を諌め、傅役としての責任をとるためだったとも、嫡子の駿馬を織田信長が所望したが、嫡子が断ったことから不和になったためともいわれる。平手政秀の突然の自害に織田信長は衝撃をうけ、僧の沢彦に命じて尾張国春日井郡小木村に政秀寺を建立して菩提を弔った。

備考

人物 政秀寺は尾張国春日井郡小木村にあったが、1610年に名古屋に移され現存する。
参考文献 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行
ウェブサイト コトバンク 2026年7月9日閲覧