文禄・慶長の役
(ぶんろく・けいちょうのえき)
| 概略 | 1592年から1598年にかけ、羽柴秀吉が明(中国)征服を目ざして朝鮮に兵を出した侵略戦争。 |
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| 別名 | 朝鮮派兵 壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん) 万暦(ばんれき)朝鮮の役 唐入(からいり) 高麗陣(こうらいじん) 征韓 朝鮮征伐 朝鮮役 秀吉の朝鮮出兵 |
| 年月日 | 1592年3月~1598年11月 |
| 場所 | 朝鮮半島 本営・肥前国名護屋 佐賀県唐津市 |
| 交戦勢力 | 日本国 |
| 朝鮮国 明国 |
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| 総大将 | 羽柴秀吉 |
| 朝鮮国王 | |
| 日本軍 参加武将 |
羽柴秀吉 宗義智 小西行長 加藤清正 黒田長政 宇喜多秀家 福島正則 小早川隆景 毛利輝元 森吉成 鍋島直茂 内藤如安 |
| 朝鮮軍 参加武将 |
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| 結果 | 羽柴秀吉の死亡により撤退 |
戦いの背景
| 1585年 9月 |
羽柴秀吉の大陸侵略構想は、関白(かんぱく)就任直後からみられた。 |
|---|---|
| 1587年 | 九州征伐を契機として具体化した。羽柴秀吉は対馬国の宗家に対朝鮮交渉を命じた。その内容は、朝鮮が日本に服属し明征服の先導をすることであった。しかし、旧来から朝鮮と深い交易関係をもっていた宗家は、羽柴秀吉の意向をそのまま朝鮮に伝えず、家臣の柚谷康広を日本国王使に仕立て、羽柴秀吉が日本の新国王になったので統一を祝賀する通信使(親善の使い)を派遣してほしいと要請した。これに対し朝鮮側は、羽柴秀吉が日本国王の地位を纂奪(さんだつ)したものとみなし、これを断った。 |
| 1589年 | 羽柴秀吉の強硬な命令により、宗義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多の豪商島井宗室らとともに朝鮮に渡り、通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉(こういんきつ)、金誠一(きんせいいつ)らが通信使として来日した。 |
| 1590年 11月 |
聚楽第(じゅらくだい)で羽柴秀吉の引見を受けた。その際、羽柴秀吉は彼らを服属使節と思い込んで「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明征服の先導)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになる。 |
| 1591年 | 羽柴秀吉は肥前国名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に征明の基地の築城普請を始めた。一方、宗義智と小西行長は、羽柴秀吉の命じた「征明嚮導」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」(明に入りたいので道を貸してほしい)という要求にすり替えて朝鮮側に交渉したが、それは拒絶された。 |
戦いの経緯
文禄の役
(ぶんろくのえき)
| 1592年 3月 |
羽柴秀吉は肥前国名護屋城に本営をおき、約16万(15万8000)の兵力を9軍に編成し、朝鮮に渡海させた。 |
|---|---|
| 1592年 4月12日 |
釜山(プサン)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちょう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正、黒田長政らの軍も侵入した。 |
| 1592年 5月3日 |
朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。 |
| 1592年 5月18日 |
報告を受けた羽柴秀吉は、やがて明を征服したのち、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を北京(ペキン)に移し、日本の天皇は周仁親王(かねひとしんのう)か智仁親王(ともひとしんのう)とし、養子の羽柴秀次を中国の関白にして、日本の関白は羽柴秀保(大和大納言(やまとだいなごん)、羽柴秀次の弟、羽柴秀長の養子)か宇喜多秀家を任じ、羽柴秀吉自身は日明貿易の港であった寧波(ニンポー)に入り、朝鮮は羽柴秀勝(岐阜宰相、羽柴秀次の弟、羽柴秀吉の養子)か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を示した。このときすでに、漢城を落とした日本の兵力は、京畿道(けいきどう)―宇喜多秀家、忠清道―福島正則、全羅道―小早川隆景、慶尚道―毛利輝元、黄海道―黒田長政、平安道―小西行長、江原道―森吉成、咸鏡道―加藤清正を部将として朝鮮全域に入った。その目的は、朝鮮全域を明征服の足場として固め、釜山から義州までの道筋と羽柴秀吉出陣の際の宿所を確保することにあった。そのために、朝鮮農民を農耕につかせて兵糧米をとり、日本軍に反抗する者を処罰する占領政策がとられた。咸鏡道の場合、鍋島直茂は朝鮮農民を人質にとって牢に入れ兵糧米をとっている。このような侵略行為に対し、朝鮮民衆は両班(ヤンパン)層に率いられ、義兵を組織して民族的決起を行った。慶尚道の郭再祐(かくさいゆう)の義兵、全羅道の高敬命(こうけいめい)の義兵は日本軍の侵略の直後に決起したものであり、侵略が奥地へ進むにつれ、義兵の決起は朝鮮全域に広まった。また李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を断ち、明からもいち早く救援軍が朝鮮に入った。 |
| 1593年 1月 |
明軍は平壌の小西行長らの日本軍を破って漢城に向けて南下した(平壌の戦い)。これに対し日本軍は、漢城の北方にある碧蹄館(へきていかん)で明軍を破り(碧蹄館の戦い)、晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図した。ここに朝鮮を除外して、日明間で講和交渉の機運が持ち上がった。 |
| 1593年 4月 |
竜山停戦協定の成立に伴い撤退。 |
| 1593年 6月 |
羽柴秀吉は名護屋において明使節に、朝鮮南四道の日本割譲、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活など7か条の要求を示した。それとは別に小西行長は、明側から外交にあたっていた沈惟敬(しんいけい)と画策し、偽作した羽柴秀吉の降表(表とは明皇帝に奉る文書)を家臣の内藤如安に持たせて明皇帝のもとへ派遣していた。内藤如安は、釜山周辺に駐屯する日本軍の撤兵、日本は朝鮮と和解し明の宗属国となり、冊封(さくほう)のほか貢市(こうし)を求めないと誓った。 |
| 1596年 | この結果、明皇帝から「茲(ここ)ニ特ニ爾(なんじ)ヲ封(ほう)ジテ日本国王ト為(な)ス」という誥勅(こうちょく)が羽柴秀吉のもとにもたらされるに至った。 |
慶長の役
(けいちょうのえき)
| 1597年 | 自分の要求がまったく無視されたことを怒った羽柴秀吉は、14万の軍兵をふたたび朝鮮に出し、第二次侵略(慶長の役)を起こした。第二次侵略の目的は征明でなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった。それゆえ、残虐行為も惨を極め、朝鮮抗日組織指導者の虐殺、鼻切り、農民・陶工・朱子学者など朝鮮人捕虜の日本強制連行などが行われた。 |
|---|---|
| 1597年7月 | 日本軍は慶尚道巨済島で元均(げんきん)の率いる朝鮮水軍を破った。 |
| 1597年8月 | 全羅道南原城を陥れた(南原城(なんげんじょう)の戦い)。 |
| 1597年12月 | 明・朝鮮側も反撃の態勢を固め、蔚山(ウルサン)新城の包囲(蔚山の戦い)。 |
| 1598年 | 明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほとんど海岸線に釘づけとなった。このときの戦いとしては、順天(じゅんてん)の戦い、露梁津(ろりょうしん)の海戦などが知られている。 |
| 1598年8月 | 羽柴秀吉が死亡した。 |
| 1598年10月 | 泗川(しせん)新城の攻撃を行った(泗川(しせん)の戦い)。羽柴秀吉の死亡を機に本軍は朝鮮からの撤退を始めるようになった。 |
| 1598年11月 | 島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終わった。 |
備考
| 参考文献 | 日本大百科全書(ニッポニカ)ウェブ版 小学館 2023年7月7日閲覧 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ウェブ版 2023年7月8日閲覧 山川 日本史小辞典ウェブ版 山川出版社 2023年7月8日閲覧 世界大百科事典 第2版ウェブ版 株式会社平凡社 2023年7月8日閲覧 |
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