大舘持房(おおだちもちふさ)
生年月日 | 1401年 |
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没年月日 | 1471年9月 |
幼名 | |
通称 | 次郎 |
別名 | 景寵院・高門・常誉(法号) |
官位 | 刑部少輔 刑部大輔 上総介 |
家系 | 大舘家 |
父 | 大舘満信 |
母 | |
正室 | 赤松則友の娘 |
側室 |
年表
1401年 | 大舘満信の長男として生まれる。 |
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1421年 | 室町幕府4代目将軍の足利義持より偏諱(「持」の字)を賜って持房と名乗った。足利義持並びに5代目将軍の足利義量の時代に近習・申次など将軍側近の役割を果たした。 |
1428年 1月 |
足利義持が死亡すると、6代目将軍に足利義教が選ばれたが、その際には足利義教の行列の警護を務めている。また、父の大舘満信に至っては足利義教を迎える使者を務めるなどしたことから、大舘満信・大舘持房の父子は足利義教のもとで信任された。 |
1429年頃 | 室町幕府の御供衆に任命された。 |
1430年 1月 |
足利義教が幕府権力の強化のために恐怖政治を行なうに及んで大舘満信はたびたび諫言したため、足利義教の怒りを買って強制的に隠居させられた上、その所領も大舘持房に与えられた。 |
1441年 6月24日 |
大舘満信は大舘持房よりその弟である大舘持員を偏愛していたため、所領を与えられたことが大舘持房の讒言によるものと誤解し、足利義教が嘉吉の乱で殺害されるとその所領を奪って大舘持員に与えた。しかし、大舘持房は文句も言わず、奪われた所領を取り返さなった。 |
1455年 1月 |
遠縁の同族である今参局が権勢を強めたが、大舘持房も娘の佐子を足利義政の側室として入れ、その間に娘が生まれたことから外戚として権勢を振るった。 |
1467年 | 父と同じ奉公衆5番頭に任じられ、応仁の乱では幕府御所の警護を務めるなど室町幕府の重鎮として活躍したが、老齢のため嫡孫の大舘政重に家督を譲って隠居した。 |
1471年 9月 |
71歳で死亡。 |