一万人の戦国武将

足利義昭
(あしかがよしあき)

生年月日 1537年11月3日
没年月日 1597年8月28日
幼名
通称
法号 覚慶
霊陽院
道号 昌山道休
別名 足利義秋
官位 従五位下・左馬頭
従四位下・参議
従三位・権大納言
准三后
家系 足利将軍家
父 足利義晴
母 近衛尚通の娘
正室
側室

年表

1537年
11月3日
12代室町幕府将軍の足利義晴の次男として京都で生まれる。母は近衛尚通の娘。
1542年 近衛尚通の嫡男の近衛稙家の猶子となって大和国興福寺一乗院に入室し、覚慶と称した。
1562年 一乗院門跡となった。
1565年
5月
兄で14代将軍の足利義輝が三好三人衆に弑逆されたとき幽閉されたが、細川藤孝らの活躍で一乗院を脱出。供衆の近江国の和田惟政を頼った。
1566年
2月
矢島に移って還俗して足利義秋と名乗った。従五位下左馬頭に叙任して将軍となる意思を明らかにし足利義栄に対立した。
1567年 若狭国から越前国一乗谷の朝倉義景を頼った。
1568年
4月
朝倉義景の館で元服して足利義昭と改名した。上杉輝虎・武田晴信・北条氏政・毛利元就らに上洛援助を依頼した。
1568年
7月
近江国を経て美濃国立政寺に入り織田信長に迎えられた。
1568年
9月
六角・三好・松永勢を破った織田信長に奉じられて入京した。
1568年
10月18日
征夷大将軍・参議・左近衛権中将となり、従四位下に叙せられ室町幕府15代将軍職についた。
1569年 足利義昭は、毛利元就と大友義鎮、上杉輝虎と武田晴信との講和をはかるなど政治的に動き出した。
1569年 織田信長は足利義昭に「殿中の掟」を定めて規制を加えた。
1570年 織田信長が呈出した条書で政治行動を規制され、武田晴信と盟約した。
1572年 織田信長は足利義昭に「異見17ヵ条」を提出した。
1572年 足利義昭の反織田信長の行動はいっそう鮮明となった。武田晴信・浅井長政・朝倉義景・顕如ら反織田信長勢力を結集して織田信長包囲作戦をはかった。
1573年
2月
浅井長政・朝倉義景・武田晴信らの力をかりて織田信長を討とうとし近江国に挙兵した。
1573年
4月
勅命によっていったん織田信長と講和した。
1573年
7月
山城国槇島城に拠って挙兵したが、半月ほどで敗れ、子の義尋を人質として降伏した。室町幕府は15代238年で滅亡した。
1573年 河内国若江城の三好家のもとに移った。六角義賢・河野通直・武田勝頼・上杉輝虎・北条氏政・徳川家康・顕如・毛利輝元・島津義久らに幕府回復を依頼した。
年代不詳 和泉国堺に移った。
年代不詳 紀伊国由良の興国寺に移る。。
1576年 紀伊国から備後国鞆に移り、毛利家を頼って幕府再興をはかった。毛利家と織田家とを断交させ帰洛運動の拠点とした。
年代不詳 毛利家ははじめ本願寺を支援したが、織田信長の装鉄船が出現したため制海権を失い、陸戦でも羽柴秀吉に圧迫されるようになった。
1582年 本能寺の変で織田信長が倒れたため、足利義昭は再び京都復帰をはかって、羽柴秀吉・柴田勝家・徳川家康らを説得し、龍造寺政家や島津義久に援助を依頼したが、実現しなかった。
1587年 聚楽第行幸を機会に帰京した。羽柴秀吉を足利義昭の養子として、征夷大将軍を望むが拒否された。足利義昭は、山城国槇島に住み、1万石を与えられた。
1588年
1月
出家して昌山道休。山城国槇島に住み、1万石を与えられた。
1592年 文禄の役に名護屋本営に従軍。
1597年
8月28日
大坂においてはれものを病んで数日病臥ののち61歳で死亡。墓所は京都等持院(京都相国寺霊陽院)。

備考

人物 足利義昭が執拗に京都復帰運動を展開できたのは将軍家の権威がなお精神的規範として戦国大名の間に作用しえたからであって、足利将軍家の最後を飾る行動として評価されるべきである。
参考文献 戦国人名事典 コンパクト版(新人物往来社)1990年発行
ウェブサイト​ コトバンク 2026年9月19日閲覧

足利義持
あしかがよしもち

生年月日 1386年2月12日
没年月日 1428年1月18日
幼名
通称 室町殿
別名
法号 勝定院顕山道詮
官位 正五位下 征夷大将軍
参議
権大納言
右大将
左大臣
家系 足利将軍家
父 足利義満
母 安芸法眼の娘(藤原慶子)
正室
側室

年表

1386年 室町幕府3代目将軍の足利義満の子として生まれる。
1394年
12月17日
元服して、室町幕府4代目将軍となる。正五位下に叙する。その後も足利義満が政務を執った。
1396年 参議となる。
年代不詳 足利義満による異母弟の足利義嗣への偏愛が始まり、家督相続が危ぶまれた。
1399年 絶海中津より受衣して道詮と称した。
年代不詳 空谷明応より顕山の尊号を受けた。
1406年 権大納言兼右大将に上る。この間、父の足利義満が依然として政務全般を掌握していたので、将軍位は傀儡に過ぎなかった。父に叱責されて伝奏の日野重光に救解を頼んだこともあり、足利義満との反目は深刻で、これが後年の施策に反映したとされる。
1408年
5月
足利義満が死亡すると、親政を始め、宿老の斯波義将・畠山満家らがこれを助けた。
1408年
7月
内大臣になる。
1408年 父の足利義満の政庁である北山第を破却して、新築の三条坊門第に移った。
年代不詳 亡父の足利義満に贈られた上皇の尊号を拒否して皇位簒奪路線を否定した。
年代不詳 明への屈従を嫌って断交した。
年代不詳 相国寺鹿苑院内に蔭涼軒をはじめた。
1412年 北朝の称光天皇を擁立したが、これが両朝和約に違反するとして飛騨・伊勢両国司らが蜂起した。
1416年 上杉禅秀の乱が起こると、短期に鎮圧し、足利義嗣が上杉氏憲らと通じたとして捕らえた。
1418年
1月
足利義嗣を殺害した。
1423年
3月18日
室町幕府の将軍職を足利義量に譲った。
1423年
4月25日
出家したが、父の足利義満の例にならってひきつづき幕政をみた。室町殿と称された。
1423年 甲斐国・常陸国の紛争を機に幕閣では関東出兵が議されたが、宿老は「遠国融和策」を主張して出兵に反対した。鎌倉公方の足利持氏も幕府に譲歩して大事には至らなかった。
1425年
2月
足利義量が早世したため、将軍を置かずに執政した。
1427年 播磨守護の赤松満祐の職をその一族の赤松持貞に与えようとしたため、赤松満祐の反抗にあったが、畠山満家らの尽力で事なきを得た。
年代不詳 晩年は護持僧の三宝院満済が宿老会議の座長となり、重事は宿老の合議により決定された。足利義持の治政下に地方では守護領国制が進展し、大名・国人の諸家では家臣団の力が強化された。
1428年 腫物の傷がもとで重態に陥ると、宿老らは足利義持自らによる後嗣指定を望んだが、嫡子のない足利義持はこれを拒否した。
1428年
1月18日
43歳で死亡。くじ(神判)による跡目決定となり、その結果同母弟の足利義教が選ばれた。これは当主の遺言よりも家老の意向が優先するという時代思潮を反映したものである。

備考

人物 老臣に対して、父の足利義満が厚礼であったのに、足利義持は尊大に振る舞った。神・禅宗への信仰は厚く、氏神八幡神を固く信じ、石清水放生会には自身が参向した。足利義量の死後は神意を仰いで嗣子の生誕を確信していた。死に臨んでも禅の工夫を怠らなかった。
参考文献 ウェブサイト ​コトバンク