足利義持
あしかがよしもち
| 生年月日 | 1386年2月12日 |
|---|---|
| 没年月日 | 1428年1月18日 |
| 幼名 | |
| 通称 | 室町殿 |
| 別名 | |
| 法号 | 勝定院顕山道詮 |
| 官位 | 正五位下 征夷大将軍 参議 権大納言 右大将 左大臣 |
| 家系 | 足利将軍家 |
| 父 | 足利義満 |
| 母 | 安芸法眼の娘(藤原慶子) |
| 正室 | |
| 側室 |
年表
| 1386年 | 室町幕府3代目将軍の足利義満の子として生まれる。 |
|---|---|
| 1394年 12月17日 |
元服して、室町幕府4代目将軍となる。正五位下に叙する。その後も足利義満が政務を執った。 |
| 1396年 | 参議となる。 |
| 年代不詳 | 足利義満による異母弟の足利義嗣への偏愛が始まり、家督相続が危ぶまれた。 |
| 1399年 | 絶海中津より受衣して道詮と称した。 |
| 年代不詳 | 空谷明応より顕山の尊号を受けた。 |
| 1406年 | 権大納言兼右大将に上る。この間、父の足利義満が依然として政務全般を掌握していたので、将軍位は傀儡に過ぎなかった。父に叱責されて伝奏の日野重光に救解を頼んだこともあり、足利義満との反目は深刻で、これが後年の施策に反映したとされる。 |
| 1408年 5月 |
足利義満が死亡すると、親政を始め、宿老の斯波義将・畠山満家らがこれを助けた。 |
| 1408年 7月 |
内大臣になる。 |
| 1408年 | 父の足利義満の政庁である北山第を破却して、新築の三条坊門第に移った。 |
| 年代不詳 | 亡父の足利義満に贈られた上皇の尊号を拒否して皇位簒奪路線を否定した。 |
| 年代不詳 | 明への屈従を嫌って断交した。 |
| 年代不詳 | 相国寺鹿苑院内に蔭涼軒をはじめた。 |
| 1412年 | 北朝の称光天皇を擁立したが、これが両朝和約に違反するとして飛騨・伊勢両国司らが蜂起した。 |
| 1416年 | 上杉禅秀の乱が起こると、短期に鎮圧し、足利義嗣が上杉氏憲らと通じたとして捕らえた。 |
| 1418年 1月 |
足利義嗣を殺害した。 |
| 1423年 3月18日 |
室町幕府の将軍職を足利義量に譲った。 |
| 1423年 4月25日 |
出家したが、父の足利義満の例にならってひきつづき幕政をみた。室町殿と称された。 |
| 1423年 | 甲斐国・常陸国の紛争を機に幕閣では関東出兵が議されたが、宿老は「遠国融和策」を主張して出兵に反対した。鎌倉公方の足利持氏も幕府に譲歩して大事には至らなかった。 |
| 1425年 2月 |
足利義量が早世したため、将軍を置かずに執政した。 |
| 1427年 | 播磨守護の赤松満祐の職をその一族の赤松持貞に与えようとしたため、赤松満祐の反抗にあったが、畠山満家らの尽力で事なきを得た。 |
| 年代不詳 | 晩年は護持僧の三宝院満済が宿老会議の座長となり、重事は宿老の合議により決定された。足利義持の治政下に地方では守護領国制が進展し、大名・国人の諸家では家臣団の力が強化された。 |
| 1428年 | 腫物の傷がもとで重態に陥ると、宿老らは足利義持自らによる後嗣指定を望んだが、嫡子のない足利義持はこれを拒否した。 |
| 1428年 1月18日 |
43歳で死亡。くじ(神判)による跡目決定となり、その結果同母弟の足利義教が選ばれた。これは当主の遺言よりも家老の意向が優先するという時代思潮を反映したものである。 |
| 人物 | 老臣に対して、父の足利義満が厚礼であったのに、足利義持は尊大に振る舞った。神・禅宗への信仰は厚く、氏神八幡神を固く信じ、石清水放生会には自身が参向した。足利義量の死後は神意を仰いで嗣子の生誕を確信していた。死に臨んでも禅の工夫を怠らなかった。 |
