はじめに
一万人の戦国武将は、戦国時代に活躍した武将・家系図・出来事・城を紹介する事典です。戦国という名称は公卿の一条兼良が1480年に「樵談治要(しょうだんちよう)」の「諸国の守護たる人廉直(れんちょく)をさきとすべき事」の条項に、守護大名の動静が世襲分国になっていることを「春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」と書いている。
また、関白の近衛尚通が1508年4月16日付の日記の中で、「戦国の時のごとし」と書いて、中国の戦国(春秋戦国)を用いて当時の様子を表した。
戦国時代という術語(専門用語)が広く使われるようになったのは明治維新後とされている。
戦国という言葉の意味は各地に群雄が割拠して、互いに戦う国々。戦争で乱れた世の中。乱世。などとなっている。
また、日本の戦国時代という言葉の意味は室町幕府の権力が著しく低下し、幕府権力を背景とした守護大名が次々に倒され(下剋上)、各地に実力により台頭した戦国大名が割拠し、覇権を争った。
戦国時代の始期と終期
戦国時代の始期と終期は明確に決まった定義はない。鎌倉時代・室町時代・江戸時代は政権の成立とその中心となる地名によって命名され、ある程度明確に何年から何年までと決まっている。戦国・戦国時代という言葉の意味をどう捉えるかによっても始期は変わってくる。また、原因についても複数存在しそれが複合的に絡んでいる。そしてなにより、権力の低下というのはある日ここからというようなものではなく、小さな原因が積み重なり、大きな出来事として現れるということが言える。
同じ法則による時代区分として、戦国時代の前の時代に当たる、天皇が南朝・北朝に対立した南北朝時代がある。ざっくりと南北朝時代が終わった後が戦国時代だとすると1392年10月5日以降の何年か後が戦国時代の始期と言える。よく言われているのは畠山家と斯波家の家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで1467年から始まった応仁・文明の乱によって全国規模の戦乱が始まったというもの。または、1493年の明応の政変によって足利将軍家が足利義稙流と足利義澄流に二分され、室町幕府の権力が著しく低下したことによって始まったというこの2つが多い。この2つの根拠は先で述べたように一条兼良と近衛尚通が書き記した言葉と戦国・戦国時代の意味に由来していると言える。畠山家の家督争いの最初は1448年に畠山持国の養子となっていた弟の畠山持富を廃嫡して実子の畠山義就を家督につけたことから始まった。
室町幕府の権力の低下という意味では、関東地方で鎌倉公方の足利成氏と関東管領の上杉憲忠が対立したことによって1454年に関東管領の上杉憲忠が誅殺された。そのことから始まった享徳の乱では、室町幕府の介入にも関わらず1482年に和睦が成立するまで約30年にわたって室町幕府と古河公方(鎌倉公方)の対立で関東地方が戦乱状態にあった。
享徳の乱の原因として考えられるのは、鎌倉府の補佐をする上杉家の犬懸上杉家と山内上杉家の覇権争いから1416年に元関東管領の上杉氏憲が起こした上杉禅秀の乱によって、一時的とはいえ鎌倉公方の足利持氏が鎌倉から駿河国の駿河今川家のもとに逃れることになった。乱の終結後から鎌倉府の立て直しをしようと強権的な行動をした結果、もともとあった室町幕府との確執が広がることとなった。1428年に将軍が選ばれる際に足利持氏は将軍になることを目指したが、くじ引きによって足利義教が将軍に選ばれ、将軍への宿望を果たせなかった。足利持氏は京都に攻め上がろうとしたが、関東管領の上杉憲実に諌められ、事なきを得た。その後も足利持氏と足利義教の対立は続いた。1438年には元服するのに慣例となっていた将軍からの偏諱を受けずに足利持氏の嫡男が足利義久と称したため、室町幕府との調停に努めてきた関東管領の上杉憲実と対立し、討伐しようとした。そのため、室町幕府は鎌倉公方の足利持氏の討伐に踏み切った。幕府軍と上杉憲実軍に攻められた足利持氏は上杉憲実の助命嘆願にもかかわらず、足利義教の命により1439年2月に鎌倉永安寺で自害した(永享の乱)。1440年には結城氏朝が鎌倉公方の足利持氏の遺児の春王丸・安王丸を奉じて、室町幕府に対して挙兵した。1441年4月16日に結城城が落城、結城氏朝は自害、春王丸・安王丸は捕らえられ京都に送られる途中美濃国で殺された。1441年6月24日に万人恐怖とも言われる強権的な政策を行っていた足利義教は赤松満祐に結城合戦の戦勝の祝賀と称して自邸に招かれ、宴会中に斬殺された(嘉吉の乱)。1447年には信濃国の大井家に匿われていた足利持氏の遺児の足利成氏が鎌倉公方として迎えられた。しかし関東管領の上杉憲忠を核とする上杉派と鎌倉公方派の対立は深まっていった。1450年に足利成氏は鎌倉を逃れて江の島に入るという事態に陥った。まもなく反撃して鎌倉に戻ったが、こうした対立の連鎖が関東管領の上杉憲忠の誅殺から始まる享徳の乱に発展していった。
原因としてまとめると、上杉家の覇権争いから足利持氏と上杉氏憲の対立に発展した。立て直そうとした足利持氏と足利義持の対立が広がり、その対立は足利持氏と足利義教によってさらに広がった。足利義教のきびしすぎる政策よって赤松満祐に斬殺され、室町幕府の権力が低下した。さらに足利成氏と上杉憲忠にも対立は引きずられ、足利成氏によって上杉憲忠が誅殺されて始まった享徳の乱を室町幕府の力では抑えることができないまま応仁・文明の乱が始まり全国規模の戦乱に発展していったということが言える。
ここでは戦国時代の始期を広義(広い意味)で考えると1416年からだと言える。狭義(狭い意味)で考えると1493年からだと言える。
終期については、1568年の織田信長の上洛または1573年の将軍足利義昭の追放で室町時代(戦国時代)が終了し安土桃山時代(織豊時代)が始まったことで戦国時代の終期とするものがある。安土桃山時代(織豊時代)を含めて、羽柴秀吉が関東・奥羽に惣無事令を発布した1587年、または1590年の伊勢氏流北条家を降伏させた小田原征伐、もしくは九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年、さらに後世に進み、1600年の関ヶ原の戦いやさらに後の1615年の大坂の陣、最後の大規模戦闘という意味では1638年に終結した島原の乱を終期とする考え方などが存在する。
ここでは戦国時代の終期を広義で考えると1638年に終結した島原の乱以降は幕末まで大規模戦闘がなかったことから終期と言える。狭義で考えると安土桃山時代(織豊時代)が始まった1568年が終期と言える。
ここでは戦国時代を広義で考えて、1416年の上杉禅秀の乱に始まり、1638年の島原の乱で終わると定義します。
武将の紹介
武将の紹介は、五十音順で紹介します。1416年以降に活躍または死亡が確認できる武将、1638年までに元服(1625年までに生年)または活躍が確認できる武将とします。武将名は諱(例として真田幸村は真田信繁など)で紹介します。事績については年表形式で、西暦で表記し、月日については旧暦のものを掲載します。本文中に出てくる武将・出来事・城などはできる限りリンクを貼ります。
家系図
家系図は、親子関係や一族をわかりやすくするために地域ごとに紹介します。初代から1625年までに生まれたと推測される武将の子までを掲載します。以後の部分については江戸時代となりますので掲載しません。名前の下には生没年を掲載します。女性の場合は諱がわかっていないことが多くありますので通称名や嫁ぎ先武将名で掲載します。女性は生年がはっきりしないことが多くありますので、便宜上武将を上に女性を下に掲載します。黒線は実子、赤線は養子を表します。家系図の文字が乱れる場合はブラウザの最小フォントサイズを12ピクセル以下に設定してみてください。
出来事
出来事は、歴史的な出来事や戦などを地域ごとに紹介します。範囲が広いものは代表的な地域に掲載します。
城
城は、地域ごとに紹介します。現在の所在地を掲載しある程度どの場所にあったのかがわかるようにします。
長寿ランキング
長寿ランキングは、戦国武将の平均寿命が50歳ぐらいとされていて、戦いで死亡しなかったとしても60歳ぐらいで死亡することが多かった時代です。そんな中でも現在の平均寿命を上回る長寿の武将が存在します。そんな武将をランキング形式で紹介します。数え年で75歳を下限とします。
子宝ランキング
子宝ランキングは、戦国武将の中でも特に子宝に恵まれた武将をランキング形式で紹介します。下限を10人とします。
