一万人の戦国武将

文政の政変(ぶんせいのせいへん)

背景

1449年
4月29日~
足利義政は室町幕府8代目将軍に就任し、専制政治を確立しようとして乳父で政所執事の伊勢貞親と鹿苑院蔭涼軒主の季瓊真蘂を登用、諸大名の介入を行った。
1454年
8月21日
畠山家のお家騒動が起こり、山名持豊と細川勝元が畠山持国の甥の畠山政久を庇護して畠山持国と子の畠山義就を京都から追い落とした。足利義政はこの問題で畠山義就を支持した。
1454年
8月29日
足利義政は畠山政久を匿った細川勝元の被官を切腹させた。
1454年
11月2日
足利義政は山名持豊の討伐命令を下した。
1454年
11月3日
足利義政は山名持豊が隠居したため討伐を撤回した。
1454年
12月13日
山名持豊が但馬国に下向した後、畠山義就が上洛、足利義政と対面して家督相続を認められ、畠山政久は没落した。足利義政の畠山義就支持は、細川家・山名家に対抗するため、尾張国守護代問題で今参局を介して畠山持国を抱き込んだからで、山名持豊の討伐命令も畠山義就復帰の一環とされ、同時に嘉吉の乱で山名持豊に討伐された赤松家の復興を狙ったとされる。
1458年
8月9日
足利義政は山名持豊を赦免した。
1459年 畠山義就が上意と称して度々大和国に軍事介入したため、次第に疎遠となり、畠山政久を赦免した。
1459年
8月
斯波義敏は享徳の乱鎮圧のために関東への派兵を命じられたものの、それを拒絶して越前国守護代であった甲斐常治の反乱の鎮圧を行ったため、足利義政は抗命を理由に斯波家の当主交代を行い、斯波義敏の子の斯波義寛へ当主を交代させた。長禄合戦は甲斐常治が勝利したが、直後に甲斐常治も没し、関東派遣は見送られた(武衛騒動)。斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった。足利義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。
1460年 足利義政は畠山政久が死去した後は弟の畠山政長が細川勝元に擁立され、山名持豊も復帰したため、家督を畠山義就から畠山政長に交代させた。
1461年 斯波家の家督交代を行い、斯波義寛を廃嫡して渋川義鏡の子斯波義廉を当主に据えた。この行為は堀越公方の足利政知の執事である渋川義鏡を斯波家当主の父という立場で斯波家の軍勢動員を図った。
1462年 抵抗していた畠山義就は吉野へ逃れた。
1462年 渋川義鏡は関東で上杉家と対立、失脚してしまったため、足利義政は斯波義廉から斯波義敏に交代して改めて関東政策を実行しようとした。
1463年
8月
足利義政は母の日野重子が死亡したため、畠山義就と斯波義敏・斯波義寛の父子を赦免した。但し、追討令解除と身の安全の確保に過ぎず、当主復帰は認めなかった。
1464年 細川勝元の支持を受けた畠山政長は細川勝元の後任の管領に就任した。
1465年 父の渋川義鏡が失脚したことと、足利義政から斯波家の同族である奥州探題の大崎教兼との取次を命じられたが成功しなかったため、足利義政はかつて大崎教兼と取り次いでいた斯波義敏の復帰を考え赦免した。危機感を抱いた斯波義廉は斯波義敏の復帰と自分の廃立を阻止するため、山名持豊と畠山義就を頼り、大内政弘も山名持豊と連携する。
1465年
9月21日
足利義政は春日大社の社参で大和国に下向したが、斯波義廉も家臣の朝倉孝景と共に同行した。この時に大和国人で畠山義就を支援していた越智家栄が足利義政と対面、同年8月に挙兵した畠山義就に朝倉孝景が太刀を送った。
1465年
10月
細川勝元の要請で伊予の河野通春討伐に逆らい河野通春を支援した大内政弘に討伐命令を下したが、足利義政は密かに大内政弘を支援した上、大内政弘の元にいた義敏に伊勢貞親と季瓊真蘂を通して上洛を命じた。
1465年
12月30日
大内政弘の元に落ち延びていた斯波義敏は伊勢貞親と季瓊真蘂の画策で上洛して足利義政と対面した。名実とともに赦免をされることになるが、これを知った斯波義廉が足利義政に迫って30日付で斯波義廉が引き続き領国を支配し、斯波義敏の被官が勝手な行動をすることを禁じる幕府の奉行人奉書が出された。奉書を受けた興福寺(越前国内に荘園を持つ)の尋尊は足利義政の行動について「上意の儀太だ其意を得ず」と困惑を表明している。
1466年
5月
畠山義就派の大和国人の古市胤栄が斯波義廉の被官となっているため、赦免されたものの逼塞していた畠山義就を取り込み、春日社参の裏で越智家栄・古市胤栄と繋がりを持ったと推定されている。
1466年
7月23日
斯波家当主の交替に反発した山名持豊は一色義直や土岐成頼と共に斯波義廉を支持したが、足利義政は斯波義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じて斯波義敏を家督に据えた。
1466年
7月30日
河野通春を援助して室町幕府から追討命令を受けていた大内政弘を赦免したが、これは大内家と斯波家の引き入れを図ったとされる。
1466年
8月
山名持豊の娘と斯波義廉が婚約、山名派の結成が進められた。
1466年
8月25日
足利義政は、斯波義敏に越前国・尾張国・遠江国の3ヶ国の守護職を与えた。畠山義就が吉野で挙兵、畠山政長の領国の河内国を攻めた。
1466年
9月
伊勢貞親は足利義政の弟の足利義視が謀反を企んでいると足利義政に讒言し、その殺害を訴えた。
1466年
9月5日夜
足利義視が細川勝元邸に入り、伊勢貞親が足利義政に讒言して自分を殺害しようとしていると細川勝元に訴えた。

経緯

1466年
9月6日
細川勝元は出仕、足利義政に申し開きをして、罪を問われた伊勢貞親と季瓊真蘂、斯波義敏と赤松政則は京都から逃げた。斯波義敏は家督問題で伊勢貞親・季瓊真蘂と繋がり、赤松政則は季瓊真蘂と同族であり、赤松家再興に季瓊真蘂が関わっていたからとされる。山名持豊らは細川勝元が管領に在任していた時期に家督交替が行われていたことから細川勝元の関与も疑い対立、派閥形成の一因となった。一方の細川勝元も畠山政長の罷免で危機感を抱き、報復のため諸大名を上洛させ、応仁の乱に繋がった。
1466年
9月14日
斯波家の家督は斯波義廉に戻された。