足利義稙(あしかがよしたね)
生年月日 | 1466年7月30日 |
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没年月日 | 1523年4月9日または4月7日 |
幼名 | |
通称 | |
別名 | 足利義材 足利義尹 |
官位 | 従五位下 左馬頭 従四位下 右近衛中将 参議 従三位 権大納言 従二位 贈従一位 太政大臣 |
家系 | 足利将軍家 |
父 | 足利義視 |
養父 | 足利義政 足利義尚 |
母 | 日野重政の娘(日野良子) |
正室 | 細川成之の娘(清雲院) |
側室 | 山名豊重の娘 |
年表
1466年 7月30日 |
足利将軍家の足利義視と正室の日野良子の長男として父の近習の種村九郎の邸で生まれる。 |
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1468年 11月13日 |
応仁の乱が勃発すると、父の足利義視は兄である室町幕府8代目将軍の足利義政と対立して東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。この時、東軍の武田信賢が足利義稙を護り、西軍に送り届けた。 |
1477年 11月11日 |
足利義政との溝を埋めることは難しく、西軍は解体されたが、足利義視とともに美濃国の土岐成頼のもとに亡命した。美濃国では承隆寺に滞在した。 |
1478年 7月10日 |
足利義政に赦免されたが、美濃国に留まり続けた。 |
1487年 1月2日 |
足利義尚の猶子として元服した。 |
1487年 8月29日 |
美濃国に在国したまま、足利義尚の母の日野富子の推挙で従五位下・左馬頭に叙任された。 |
1489年 3月26日 |
足利義尚が応仁の乱の旧西軍であった近江国の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)の在陣中に死亡すると、父の足利義視・土岐成頼・斎藤妙純に伴われて上洛して足利義尚の葬儀に参列しようとしたが、この時は細川政元の反対でやむなく葬儀が終わった後に入京した。細川政元は足利義尚と足利義稙の従兄弟で堀越公方の足利政知の子の香厳院清晃(足利義澄)を将軍後継者候補に推して足利義稙の将軍職継承に反対していたが、足利義政・日野富子夫妻が足利義稙を支持したため、足利義稙の将軍就任がほぼ決定した。 |
1490年 1月7日 |
足利義政が死亡し、足利義稙が室町幕府10代目将軍に就任した。 |
1490年 7月5日 |
征夷大将軍・禁色の宣下があった。従四位下に叙し、右近衛中将・参議に任ぜられる。 |
1491年 1月7日 |
政治の実権を握り「大御所」と称した父の足利義視が死亡した後は、前管領の畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった日野富子や、もともと足利義澄派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。 |
1491年 8月 |
足利義尚の遺志を継ぎ、細川政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して六角高頼の追放に成功した。 |
1493年 2月 |
応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山家で、畠山政長の対抗者の畠山義就が死去したのに乗じて、畠山義就の後継者の畠山義豊を討伐するため、細川政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。 |
1493年 4月 |
足利義稙が京都を留守にしている間に、京都に残っていた細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは足利義澄を室町幕府11代目将軍に擁立して、足利義稙を廃する蜂起(明応の政変)を起こした。細川政元の蜂起の最大の原因は、足利義稙が将軍就任時は政務は当時管領だった細川政元に任せると言いながら、自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとされる。京都では足利義稙派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明した。 |
1493年 4月25日 |
細川政元は軍を河内国に派遣して足利義稙と畠山政長を打ち破り、畠山政長は自害した。足利義稙は足利尊氏以来足利将軍家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて細川政元の家臣の上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された。この時、足利義稙が毒を盛られる事件が起き、日野富子の指示によるものであった。 |
1493年 6月29日 |
幽閉された足利義稙は小豆島へ流されることを知り、側近らの手引きで京都を脱出して畠山政長の領国である越中国放生津に下向し、畠山政長の家臣の神保長誠を頼ったため越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の足利義稙は単なる無力な逃亡者ではなく、越中国でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義冬の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」などと呼ぶこともある。 |
1493年 12月27日 |
政変はなかなか承認されず、そのため足利義澄の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経って行われた。この事情のためか、足利義稙から足利義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている(もっとも、細川政元側の献金不足によって朝廷の動きが鈍かっただけとする説がある)。 |
1498年 8月19日 |
足利義稙が義材から義尹に改名するとき阿野季綱が、越中国にいた足利義稙の改名を請い、東坊城和長に書状を送り、東坊城和長は15の改名候補を撰んだ。その中から、足利義稙は義尹の名に改めた。 |
1498年 9月 |
越前国の朝倉貞景のもとへ移った。この行動をめぐっては、細川政元側との和睦を見込んだ上洛説、足利義澄追討のための西進説、神保長誠との不和に起因する越前国没落説などがある。越前国に赴いた際の御供がわずか13人だったことなどから、みずから朝倉家の本拠一乗谷におもむいて朝倉家を説得しようと決意しての行動だったと思われる。 |
1499年 7月 |
畠山政長の子の畠山尚順と同調して軍事攻撃による上洛をめざすものの、この軍事作戦に朝倉貞景は従軍していない。一方、神保陣営は従軍した。この戦いは延暦寺・根来寺・高野山の僧兵も足利義稙に呼応して一時は近江国まで迫ったが、坂本で六角高頼に敗れ、河内国に逃れたがここでも細川政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父の足利義視を奉じて西軍に属した縁を頼って周防国に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内国を失って紀伊国に逃れた。 |
1501年 | 参議を辞す。左近衛中将にはひきつづき在任。 |
1508年 4月 |
細川政元が暗殺されて政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態(永正の錯乱)に陥ると、足利義稙は将軍への復帰の好機と見て、大内家の軍事力に支えられ、細川家の後継者候補の内の細川高国らの勢力に迎えられて中国地方や九州の諸大名とともに山口から、尾道、鞆を経て堺に到着した。 |
1508年 6月 |
京都を占領して11代目将軍の足利義澄や細川高国と対立していた管領の細川澄元を追放した。 |
1508年 7月1日 |
従三位に叙し、権大納言に任ぜられる。室町幕府将軍職に復帰した。 |
1508年 8月 |
足利義稙の政権は管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていたため、親裁志向の強い足利義稙としては、意のままにならないことも多く、将軍復帰直後最初の御成先に畠山尚順の宿舎を選んだ(畠山尚順を将軍復帰の最大の功労者と認定したことになる)ことで大内義興がこれに抗議するために宴会を途中で退席して細川高国もこれに同調した。 |
1508年 12月27日 |
従二位に叙される。 |
1509年 10月 |
足利義澄から刺客を送られたが、自ら撃退した。 |
1511年 8月23日 |
船岡山合戦に勝利し、この直前に足利義澄が病死したため、足利義稙の室町幕府将軍職の復帰が確定した。 |
1512年 3月 |
後柏原天皇が足利義稙の意向に反して大内義興を従三位に叙した。 |
1513年 3月 |
細川・大内・畠山の諸氏と対立した足利義稙が一時京都を出奔して近江国甲賀郡に逃れた上、当地で病を発した。一時は死亡説が流れるほどの重病で東寺や伊勢神宮でも将軍平癒の祈祷が行われるほどであった。 |
1513年 4月 |
細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元の連名で将軍の下知に背かない旨の起請文が作成された。 |
1513年 5月 |
回復後に和解が成立し、細川高国・大内義興・畠山尚順・畠山義元・伊勢貞陸が近江国甲賀郡まで足利義稙を迎えに行き、京都に戻った。 |
1513年 11月19日 |
足利義稙が義尹から義稙に改名するときも、東坊城和長がその名を勧進した。 |
1517年 | 足利義稙の拒否にも関わらず、細川高国の判断によって伊達高宗に偏諱(「稙宗」)が与えられて左京大夫に任官された。 |
1518年 8月 |
大内義興が領内の事情などから管領代を辞して帰国し、続いて畠山尚順も同様の理由で帰国すると、残された足利義稙と細川高国は次第に対立を深めていった。 |
1518年 12月 |
大内義興の帰国によって軍事的支えが無くなり、これを好機と見た細川澄元が動き始めたことから、足利義稙は赤松義村に細川澄元やその家臣らを成敗するように命令を出した。 |
1519年 9月27日 |
源氏長者・淳和奨学両院別当に補せられる(足利家最後の源氏長者・淳和奨学両院別当)。 |
1519年 10月 |
阿波国に逃れていた細川澄元は挙兵した。 |
1519年 11月3日 |
細川澄元が摂津国に上陸したため、赤松義村に細川高国に味方するように命じた。この頃から足利義稙が赤松家を通じて細川澄元と秘かに関係を持っていた可能性がある。 |
1520年 2月8日 |
足利義稙から細川高国に細川澄元討伐に関する御内書が出されており、細川高国が足利義稙の内通をこの段階になるまで知らなかった可能性が高い。 |
1520年 2月17日 |
細川高国は尼崎で大敗し京都へ敗走し、足利義稙に一緒に近江国へ逃亡するよう申し出たが、これを拒否した。既に細川澄元から恭順を誓う書状が送られていた。 |
1520年 3月 |
近江国へ逃れた細川高国に代わって細川澄元の家臣の三好之長が入京した。親裁志向の強い足利義稙は若い細川澄元を利用して政務の実権を掌握しようとしたとも考えられる。 |
1520年 5月1日 |
細川家の家督相続を細川澄元に許した。 |
1520年 5月5日 |
近江国で勢力を回復した細川高国が等持院で細川澄元を打ち破って(等持院の戦い)再び入京し、細川澄元は阿波国へ逃げ帰った。これ以後、足利義稙と細川高国の仲は険悪なものとなった。 |
1520年 12月25日 |
細川高国は足利義稙に代わる新将軍として、室町幕府11代目将軍の足利義澄の遺児の足利義晴を擁立した。権大納言・源氏長者・淳和奨学両院別当にはひきつづき在任。 |
1521年 3月7日 |
足利義稙は和泉国堺に出奔した。足利義稙は細川高国の影響下の京都を離れて細川高国討伐軍を起こそうとしたと考えられているが、これに従ったのは側近の畠山順光やごく一部の奉行人ら数名のみで政所頭人の伊勢貞忠や奉行人のほとんどは京都に留まって足利義稙を見限ることになった。同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して細川高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させた。この頃までに足利義澄の長男の足利義冬を養子とした。 |
1521年 3月10日 |
足利義稙は和泉国から淡路国志筑浦に逃れ、ここで再挙を図って細川高国と抗争した。 |
1521年 10月 |
細川高国の妻の兄弟である和泉国守護の細川澄賢や河内国守護の畠山義英らを味方につけて堺まで引き返すが、兵が集まらなかったために細川高国にかなわず、その後沼島でしばらく潜んでいた。 |
1523年 4月9日 |
再起のために細川讃州家の許に赴いた矢先に阿波国撫養で死亡した。58歳。4月7日の説あり。 |
1535年 4月8日 |
贈従一位・太政大臣。 |
文学 | 宮本昌孝「妄執の人」 |
映像 | NHK大河ドラマ「花の乱」(演者・大沢たかお) NHK大河ドラマ「毛利元就」(演者・田口トモロヲ) NHKBS時代劇「塚原卜伝」(演者・本田博太郎) |